権力の行使の隠微・指導性の放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:37 UTC 版)
「ファシリテーター」の記事における「権力の行使の隠微・指導性の放棄」の解説
パウロ・フレイレは、教育者と学習者の対等性を主張し(理解されにくいが、教育者と学習者が同じ立場で学習の場に立ちあうということではない)、特に学習者の主体性を重視していたことから、ファシリテーターの源流とみなされることがあるが、彼は教育におけるファシリテーターに対して批判的であり、教育者の指導性を放棄する「放任主義教育」と呼んでいる。「私はファシリテーターであると自称したことはありません。また、はっきりさせておきたいのは、教育者である以上、常に教えながらファシリテートしているということです。教えずにファシリテートするファシリテーターという考えは受け入れられません」と語り、指導性を否定するファシリテーターは教育者と呼ばれるための資格をもたないと考えた。 フレイレは、ファシリテーターが教育者である以上、学習者を評価し、カリキュラムを管理する権力をもっているにもかかわらず、権力を行使していないように振る舞い、権力を隠しながら行使するという欺瞞を指摘している。ファシリテーターは、権威主義と見られることを恐れるあまり権威を放棄し、教育者という主体性を放棄しており、学習者との対話も拒否した、学習プロセスの外に立つ傍観者でしかないとみなした。学習者の主体性を尊重すると称して装われた中立的立場は、教育者と学習者を切り離し、教育者の権力に対する学習者の注意をそらし、学習者を従順にし、ファシリテーター達が否定する権威主義の教育よりも、巧妙に、効果的に、学習者を支配できる教育、学習者の飼いならしになっていると考えた。 こうしたファシリテーターの条件を作りだしているのは権威主義と権威の混同だと思います。権威主義を脱しようとして、教育者としての権威を放棄することはできません。実際、このようなことはありえないのです。教育者は、教えようとする主題に関する知識の深さと広さをつうじて、一定の権威を保持しているからです。教育者ではなくファシリテーターだと主張する教育者は、どういうわけか、教えるという仕事、したがって対話する仕事を放棄しています。 フレイレの「解放の教育」は、教育者と学習者が互いの権威を尊重するものであり、教育者と学習者それぞれの主体性を尊重し、互いに交流する民主的な関係を目指した。 中堀仁四郎は、「トレーニングの中では、トレーナー(今でいうファシリテーター)は自分が”権力”を持つ立場にいることに気付いているべきである。トレーニングは協働の学習であるのだから。Tグループの学習プロセスは、そこにいるものの相互協力的なものである。お互いの責任、参加かどのようになっているか了解されていなければならない。(中略)”権力”の問題がどのようになっているかに気づいていなけれならない。」と述べている。 信田さよ子らは、DV加害者更生プログラムのワークショップに関する資料で、「意識するとしないとにかかわらず、筆者らファシリテーターは彼ら(プログラム参加者)に対して権力的立場にあることは疑いがない。厳密な意味での対等性はそこにはない。」と指摘している。
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