権力の頂点から逆賊へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:55 UTC 版)
李氏朝鮮が建国された直後、すべての権限は鄭道伝に集中した。その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどだった。彼は開国一等功臣と認定を受けて、門下侍郎賛成事、判都評議使司事、判戸曹事、判尚瑞司事、普門閣太学士、知経筵芸文春秋館事、判義興三軍府事など、ほとんどすべての要職を兼職または歴任した。漢城遷都の以後、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。 軍事的には「義興三軍府」の司令官として軍制を改革し、高麗後期にほとんど私兵化した軍隊を段階的に革罷して帰属させた。また陣法を新たに作り、軍事たちに厳格に徹底させた。このような軍事政策は建国直後から推進された。短期的には国防力を強化させることが目的だったが、長期的には有事の際に明に対抗するのが目的だった。 頂点にあった鄭道伝は王朝創業後酒席でよく「劉邦が張良を利用して王朝を創業したのではない。むしろ張良が劉邦を利用して王朝を創業したのである」と言って、太祖と自分の関係を劉邦と張良の関係になぞらえた。政治的には個人である国王が全ての実権を握るよりも、宰相を中心とした士大夫が軍事、財政、人事などを掌握し政治をリードすべきであると主張した。そのため強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠(太宗)と対立した。太祖は継妃康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の末息子の李芳碩を王世子に指名し、政権樹立に功績があった芳遠を遠ざけた。明を刺激するであろう遼東出兵を計画したが、1398年政敵であった李芳遠の軍勢に殺された。 詳細は「第一次王子の乱」を参照 鄭道伝の辞世の句は 「 操存省察両加功、不負聖賢黄巻中、三十年来勤苦業、松亭一酔竟成空(志を維持し自分を省みる両方に励みつつ、聖賢の教えを裏切ることなく、三十年をも苦労し勤めてきたが、それらすべてが松亭の一杯の酒で空しく過ぎ去ってしまった。) 」 であった。
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