模範生徒・取締生徒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:24 UTC 版)
生徒間においては、第1学年・第2学年の訓育班では、品行方正かつ学術優秀な第3学年の上級生が特に命ぜられ、下級生と同じ寝室・自習室において寝台・自習机を共にし、日夜その指導にあたる「模範生徒(旧称は指導生徒)」と称す制度がある(類似する制度は陸士予科にも存在した)。「模範生徒」に限らず、下級生は日常において上級生の直接的な指導を仰ぐ。 「貴様と俺」の関係である同学年でも、各班寝室・日直別で輪番制の「取締生徒」と称す制度があり、当番となった取締生徒は学科などにおいて自身の班の引率などを行った。 教官や上級生からの制裁について、日中戦争(支那事変)勃発間もない1938年春に広島陸軍幼年学校(広幼)に第42期生として入校し、3年間を過ごした村上兵衛(陸幼42期卒業後は第57期生として予士・陸士に進み、少尉任官後は近衛歩兵第6連隊の連隊旗手を経て陸士区隊長たる陸軍中尉で敗戦を迎え、戦後は作家となる。広幼第1学年当時の上級生は第3学年第40期、第2学年に第41期生)は皆無であったと証言している。 幼年学校では、ビンタ――殴られるということは、それ自体、むしろ珍しいのだが、とくに三年生が一年生を殴るということは絶無にひとしかった。殴るとすれば、だんだん生意気になってくる二年生にたいして、である。 冬休みが過ぎると、三年生が予科士官学校の繰り上げ入学で、鯉城台(母校)を去って行った。しばらくは、二年生と一年生だけになり、急に威張り出した二年生の天下、しかし一年生の眼からすると、二年生は三年生よりひとまわり人間が小さく見えるので、そこにおのずから火花が散った。私がはじめて殴られたのもの、そのころである。 一方で、同期生に「全校一」と称されるほどには目立って美男子ないし可愛い顔をしていた、武窓用語における「稚児さん」や「ショーネン」に該当する村上生徒は、その美貌により「模範生徒」を含む上級生からあまりしぼられなかったという自覚を持っている。
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