森下万歳(三河万歳・御殿万歳)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:44 UTC 版)
「西尾市」の記事における「森下万歳(三河万歳・御殿万歳)」の解説
太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の二人が一組になり、祝言を謡いながら舞ったり言葉の掛け合いをする伝統芸能(万歳)で、西尾のものは発祥地の名から森下万歳と呼ぶ。一般に三河万歳とも呼ばれる。森下万歳の発祥は鎌倉時代と言われ、江戸時代には幕府から優遇されて元旦の江戸城の開門の儀式も勤めた。新年を祝う芸能でもあったが、他の地域に伝承する万歳と違って門付けではなく、大名などの屋敷内の座敷で披露されたことから御殿万歳(演目や種類を御殿万歳と呼ぶ地域もあるが、西尾の場合は万歳形態そのものを指す)とも呼ばれる。
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森下万歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:55 UTC 版)
伝説によると、鎌倉時代中頃に実相寺の開山の応通禅師が、中国への留学時代に隋の煬帝が作られたという万歳楽を覚えて帰国した。後に南宋の陳照答谷という官吏が、元との争いで日本へ亡命して応通禅師を頼り保護を願い出た。応通禅師は陳照答谷の生活の糧となるように、習い覚えた万歳楽の曲に仏教の布教のための言葉をつけ、教えたという。伝承地の西尾市上町辺りを古くは森下村と呼んだことから森下万歳と呼ばれる。なお、幸田の三河万歳は、1897年(明治30年)に西尾の森下万歳の太夫に相手役の才蔵として付いたことにより伝えられたもので、特別な呼び名はなく単に「幸田の三河万歳」と呼ばれる。
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