梅北一揆とは? わかりやすく解説

梅北一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:13 UTC 版)

梅北氏」の記事における「梅北一揆」の解説

天正20年1592年)、豊臣秀吉の命により、佐敷城加藤重次加藤清正に従って文禄の役朝鮮半島出陣していた。 文禄元年1592年)国兼も朝鮮出兵のため、肥前国平戸至ったが、6月船待ち」と称して肥後葦北郡佐敷留まり入来院重時家老東郷甚右衛門新納旅庵義兄弟田尻但馬大姶良地頭伊集院三河守、さらに町人らもあわせて二千人余という大規模な一揆起こした。国兼ら手始めには佐敷城留守居安田弥右衛門のもとへ使者遣わし佐敷城攻めた留守を預かる坂井(境とも)善左衛門らは無勢のため城を明け渡し6月15日佐敷城は国兼の手に墜ちた。動機は、朝鮮出兵もしくは豊臣秀吉支配対す反発といわれる。国兼は翌16日田尻をすでに渡海していた小西行長領の八代郡麦島城攻略遣わし、国兼は肥後南部一揆状況化を企て配下の山蜘(やまくも)という男を近隣差し向け同心募った。 しかし17日、国兼は清正部下佐敷留守居衆の策略によって殺され一揆は僅か3日崩壊したとされている(近年では佐敷城占拠15日間に及んだとする説も浮上しており、国兼は佐敷城占拠730名を動員し、しかも別動隊として八代麦島城攻めには1000人に及んだという)。佐敷城留守居坂井善左衛門安田弥右衛門らは、相良氏応援を頼む一方一計案じた女たちに「陣中見舞い」と称して鮒鮨と酒を持たせ、国兼ら一揆勢が酒に酔った隙に乗じて首を討ち取り城を奪回した一揆失敗した最大原因は、共闘呼びかけ郷村の古侍層が決起せず、逆に一揆攻撃する側に回ったことに求められる秀吉から「悪逆人」と名指しされた国兼をはじめ「同意奴原(どういやつばら)」もことごとく討ち取られた。国兼の首は唐津名護屋城届けられ浜辺さらされ胴体佐敷五本松埋められたという。墓標は平たい自然石で、銘は何もなかったといわれる。 梅北一揆は、秀吉朝鮮出兵抵抗した国内唯一の運動であったとともに大規模なものとしては中世最後国人一揆位置付けられる。国兼の妻子下一族は名護屋磔刑一揆主な参加者極刑処せられた。

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