根曾古墳群とは? わかりやすく解説

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根曽古墳群

名称: 根曽古墳群
ふりがな ねそこふんぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 長崎県
市区町村 対馬市美津島町
管理団体
指定年月日 1976.02.24(昭和51.02.24)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S50-12-055[[根曽]ねそ]古墳群.txt: 対馬中央東岸に[[知]けち]浦がある。その北を限る岬の東端には、稜線上に3基の前方後円墳と2基の円墳からなる根曽古墳群がある。
 第1号古墳は、最高所位置し積石塚前方後円墳であり、全長30メートル前方部長さ12.3メートル、幅5.5メートル、高さ1メートル後円部は径14.5メートルであり、前方部より2.5メートル高い。後円部には主軸平行して板石石室があり鉄鏃・刀・碧玉製管玉が発見されている。第2号古墳積石塚前方後円墳であり全長35メートル測る墳形をよくとどめ後円部中央板石石室前方部くびれ部にも積石石室みられる第4号古墳積石前方後円墳であるが破壊がはげしい。第3号古墳巨材用いた板石横穴式石室であり、各壁を一枚石でつくる特異な構造をとる。第5号古墳箱式石棺を伴う積石円墳である。
 前方後円墳対馬では本古墳群と、その対岸鶴山古墳がそれかとされる以外にないだけに本古墳群きわめて重要なものであり、系譜的な流れをもつ点や古墳文化受容導入考える上に貴重な資料といえるであろう
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根曽古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/08 15:43 UTC 版)

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根曽古墳群(ねそこふんぐん、根曾古墳群)は、長崎県対馬市美津島町雞知(けち、鶏知)子ソ(ねそ)にある古墳群。5基が国の史跡に指定されている。

対馬では珍しい前方後円墳を3基含む古墳群である。

概要

古墳群の分布する岬

対馬島東海岸の雞知浦(けちうら)の岬にある、前方後円墳3基・円墳2基・不明1基(または前方後円墳3基・円墳3基)の計6基の古墳で構成される古墳群である[1][2]。これまでに1922年大正11年)の後藤守一の調査で4基が発見されていたが、1948年昭和23年)の東亜考古学会の調査で5基が確認され、その後の調査でさらに1基が確認された[1]

この古墳群の築造年代は、6世紀代と推定される[2]。前方後円墳はヤマト王権に象徴的な畿内型古墳であるが、対馬では珍しい形式になる。付近では同様に畿内型古墳である前方後方墳出居塚古墳(墳丘長40メートル、4世紀後半)やサイノヤマ古墳の築造も知られる。これらは当時には対馬が畿内ヤマト王権の勢力下にあったことを示すものとされ、被葬者としては特に史書に見える対馬県直(つしまあがたのあたい、津島県直)またはそれにつながる豪族の墓と推定する説が挙げられている[3][4]。なお、対馬の中心地は弥生時代には対馬島西海岸(三根地区の三根遺跡や仁位地区)にあったと推測されるが、古墳時代に入り出居塚古墳や本古墳群の築造時には対馬島東海岸の雞知浦に移動している[5]。その後律令制下では、同じ東海岸で南方の厳原地区に移動する(対馬国府・対馬国分寺)。

古墳群のうち6号墳を除く5基の古墳域は、1976年(昭和51年)に国の史跡に指定されている[6][2]

遺跡歴

  • 1922年大正11年)、後藤守一の調査で4基を発見[1]
  • 1948年昭和23年)、東亜考古学会の調査で5基を確認[1]
  • 1976年(昭和51年)2月24日、6号墳を除く5基が国の史跡に指定。

一覧

1号墳 墳丘全景
左に前方部、右奥に後円部。
1号墳
  • 墳形:前方後円墳
  • 規模:墳丘長30メートル、後円部直径14.5メートル・高さ2.5メートル、前方部長さ12.3メートル・幅5.5メートル・高さ1メートル[4]
丘陵の山頂付近に位置する(北緯34度15分49.60秒 東経129度19分26.69秒 / 北緯34.2637778度 東経129.3240806度 / 34.2637778; 129.3240806 (根曽1号墳)座標: 北緯34度15分49.60秒 東経129度19分26.69秒 / 北緯34.2637778度 東経129.3240806度 / 34.2637778; 129.3240806 (根曽1号墳))。前方部があまり開かない柄鏡式の前方後円形で、前方部を北方やや西寄りに向ける[4]。石室は破壊されており、後円部頂上には石室側壁の板石が残存する[4]。副葬品として、鉄鏃・鉄刀片・碧玉製管玉などが出土している[4]6世紀[2](または5世紀[4])の築造と推定される[4]
2号墳 墳丘全景
根曽古墳群では最大規模。左に後円部、右奥に前方部。
2号墳
  • 墳形:前方後円墳
  • 規模:墳丘長36メートル、前方部長さ16メートル[2]
1号墳の南東の丘陵東麓に位置する(北緯34度15分46.76秒 東経129度19分29.00秒 / 北緯34.2629889度 東経129.3247222度 / 34.2629889; 129.3247222 (根曽2号墳))。積石塚の前方後円墳で、原形をよく保つ。墳丘主軸を東西とし、前方部を西方に向ける。古墳群中では最大規模になる[4]。埋葬施設は2ヶ所で、後円部に主室の板石石室(長さ2.6メートル、幅0.8メートル、深さ0.5メートル)、くびれ部に副室の積石石室(長さ1.9メートル、幅0.6メートル、深さ0.6メートル)がある。副葬品として、須恵器土師器片・鉄剣片が出土している[2][6]
3号墳
3号墳
2号墳の近くに位置する。板石の横穴式石室で、各壁を板石1枚で作る。石室規模は長さ2.16メートル、幅1.54メートル、高さ1.05メートル。羨道は有していない。墳丘の外形は明らかでなく、副葬品も見つかっていない[2][6]
4号墳
4号墳
  • 墳形:前方後円墳か
  • 規模:不明
岬の先端部に位置する(北緯34度15分43.42秒 東経129度19分25.84秒 / 北緯34.2620611度 東経129.3238444度 / 34.2620611; 129.3238444 (根曽4号墳))。小形の前方後円墳と見られているが、現在は消滅[2]
5号墳
5号墳
  • 墳形:円墳
  • 規模:不明
4号墳近くに位置する。積石の円墳。主体は箱式石棺とする[2]
6号墳
  • 墳形:円墳
  • 規模:直径5メートル[2]
5号墳の東10メートルに位置する。国の史跡には含まれていない。

文化財

国の史跡

  • 根曽古墳群 - 1976年(昭和51年)2月24日指定[6][7]

脚注

  1. ^ a b c d e 根曽古墳群(長崎県教育庁学芸文化課「長崎県の遺跡大辞典」)。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 根曽古墳群(続古墳) 2002.
  3. ^ 「対馬国」『日本歴史地名大系 43 長崎県の地名』 平凡社、2001年。
  4. ^ a b c d e f g h 史跡説明板。
  5. ^ 『旅する長崎学12 海の道2対馬 朝鮮外交への道 海神の島 大陸交流のかけ橋』 長崎文献社、2009年、pp. 28-29。
  6. ^ a b c d e 根曽古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  7. ^ 根曽古墳群(長崎県ホームページ)。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『根曽古墳群 -2号墳発掘調査概要報告-(対馬市文化財調査報告書 第11集)』対馬市教育委員会、2021年。 

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