東原那美説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 03:09 UTC 版)
東原説は斎藤説とは全く別に、先述したような西宿地区の伝承があることに注目し、考古学調査・文献調査・地名調査の結果を総合的に考慮した上で立てられたもので、西宿地区の北側に当たる諏訪町1丁目27番から28番に比定する。 考古学調査としては教育委員会が昭和41年(1966年)に27番1号を「徳蔵寺遺跡」として調査した実績があり、この際幅3メートル、深さ1.9メートルのV字形の溝を得ている。この溝はこの地にあった湿地帯の上に土塁を設けて建物を建てる際、水はけをよくするために作られた側溝と推定されており、ここに何らかの大きな建物群が存在したことを示唆するものである。 地名調査では5つの建物のうち2つに相当する小字名として、隣接する徳蔵寺(26番3号)内から「板倉」、諏訪町自治会館(28番17号)内から「昌永寺」を得た。「板倉」は以前はここに居住した武士の名だと考えられていたが、そのような事実がないため、悲田処の「板倉」の名が残ったものと推察している。 「昌永寺」は寛永17(1640年)、設置時から悲田処を監督していたと推定される古刹・梅岩寺(久米川町5丁目24番6号)の末寺としてこの地に建立された寺の名として登場し、同年3月8日付の梅岩寺への申請文書の中にその名が見える。また昌永寺は安永7年(1778年)に徳蔵寺に管理を移管されたが、その時の文書に「正永寺」という表記で登場している。これらの文献と状況証拠から「昌永寺」の地は元「薬師寺」であった「正永寺」、つまり悲田処の中枢部であったと結論づけた。 これらの調査と考察により、東原は徳蔵寺の境内の東側から西武新宿線の線路二つ手前の路地までの東西135メートル、南北60メートルの細長い敷地を悲田処跡として推定し、諏訪町自治会館のある場所をその中心部と見ている。地域伝承の突出した具体性と、それを徹底した調査によって証明した成果に基づく結論であることから、現在最も有力視されている説である。
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