村上市羽黒町 體真山(たいしんざん)満福寺に残された作品
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「山本又五郎」の記事における「村上市羽黒町 體真山(たいしんざん)満福寺に残された作品」の解説
前述のとおり、満福寺は山本家の菩提寺となっており、代々から多くの作品が保管されている。第14代一栄の鋳造した梵鐘は戦争中に応召したものであったが、戦後に長岡市で見つかるも当時交通手段がなく引取りに行った時には間に合わず型亡き物となっていたものである。満福寺の梵鐘は損壊してしまったが、梵鐘の鏡面の銘文を紹介する。 體真山満福寺 喜捨主 小国町 細野生二 庄内町 鈴木熊八 同 斉藤新蔵 坪根巴 高橋助蔵 鋳師 辻村又五郎文化十二年乙亥四月吉祥日 「新潟県下で供出されたの梵鐘などは1700余個、今やその略歴を印刷頒布する所以のものは、以て国民の心田に稗補(はいほ)するあらんと欲してのことに他ならぬ」同様に代々の又五郎の鋳造した梵鐘、雲版など応召され、残されているものはすくない。 観音像の頭部 満福寺 観音像 頭部 満福寺 雲版 山本自爐作 (天女) 冨士美園飯島氏寄贈 満福寺の庭園 第十六代大椿が鋳鋳した観音菩薩像で、戦時中の混乱期に、頭部を土中に埋め、応召を免れ保存されていたため、現存したものである。 なお、満福寺の観音菩薩像とは別と考えられるが、同様の観音菩薩像を鋳造している。 「像は故山田鬼斎の模刻に係る南都薬師寺 東院堂聖観音菩薩像を模刻し、蓮台は高さ3寸5部、高さ基底にて垂一寸延へ、直垂三尺一寸となし、内像の高さ6尺4寸とし、重量百貫匁内外の見込、青銅色に仕上り候ものとす。」明治36年6月15日の約定証によると中村作次郎に依頼され、当時代金は「500円」で模刻している。依頼主は中村作次郎、保証人は辻井喜太郎(東京市神田表神保町10番地)。設置場所の不明である。 山田鬼斎とは、東京美術学校において岡倉天心を師事し、当時の政府の仏像模造制作事業に携わり「南都薬師寺 東院堂聖観音菩薩像」を木彫した人物。木彫品は現在「東京国立博物館の重要文化材」とされている。 中村作次郎、辻井喜太郎は富国銀行の創設者である。 中村作次郎は好古堂の経営者であり美術品に精通しており「好古堂一家言」を著し、「緒方乾山筆四季花鳥岡屏風一双」などを所蔵し、美術品、書画などを多く評論をしている。 辻井喜太郎は神田区旅館営業取締役。
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