本祭後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:08 UTC 版)
風俗舞装束(悠紀地方用) 風俗舞装束(主基地方用) 明けて辰、巳、午の3日にわたり、節会が行われる。豊楽院にはあらかじめ、悠紀帳および主基帳が装飾される。 辰日の辰刻(8時)、天皇が悠紀帳へ出御する。神祇伯の中臣氏が寿詞を奏上し(中臣寿詞、あるいは天神寿詞)、忌部氏が三種の神器の内八咫鏡と天叢雲剣を献ずる。次に弁官が両国の献る供御の物および多米都物(ためつもの)の式目を奏上する。次いで皇太子以下が八開手の拝をして一旦退出する。 次いで9時より饗宴が始まる。その順序は以下の通りである。 御膳を供する。 五位以上に饌を給う。 弁官が両国の多米都物を諸司に班給する。 悠紀国の鮮味を献る(一献)。 悠紀国の風俗舞を奏する(ニ献)。 雅楽寮が楽を奏する。 御挿頭(かざし)・和琴を献る(三献)。 ここで天皇は一旦還御し、次いで主基帳に出御する。主基帳でも同様の饗宴が行われるが、ここでは主基の風俗歌舞が奏される(一献、二献)。最後に悠紀国の国司以下が禄を賜る。 翌巳日、再び両帳で饗宴が行われるが、両帳の内容が前日と丁度入れ替えて行われる。すなわち、悠紀帳では風俗舞(一献)と和舞(二献)が奏され、主基帳では主基国の鮮味が献られた後風俗舞を奏し(一献)、田舞を奏し(二献)、御挿頭・和琴を献る(三献)。最後に主基国の国司以下が禄を賜る。この二日間の節会をそれぞれ「悠紀節会」、「主基節会」と表現される。これらはいずれも、天皇が悠紀国・主基国の産品を食し、その地の芸能にも触れることから、大嘗祭の後の直会の性格を含むものである。 午の日、豊明節会が行われる。五節舞が披露された後、功績者への叙位の宣命があり、饗宴となる。この饗宴が、本来の意味での「宴」であるといえる。 この3日の節会については、神社の祭礼の基本形式である 「神祭り」→「直会」→「宴会」 という三部構成に基づいているとされる。すなわち、辰・巳の両日の節会は、悠紀・主基両国が中心となって開く宴に天皇の行幸を仰ぐ形がとられ、産品を供し、芸能を披露することが主眼で、直会の性格を持っている。一方午日の節会は、宴会を目的とするもので、ややくだけた形の饗宴である。 明治の大嘗祭では、大嘗宮の儀の翌日に豊明節会が行われ、また、陪食の範囲が従来の公家にとどまっていたのを拡大して、各省の官吏、神宮および官国弊社の神官、京都在勤の皇族、勅任官、女官、兵学寮および大学校の生徒なども、それぞれの任地で饗膳を賜ったほか、外交官およびお雇い外国人に対しても、外務省及び文部省の主催で同日に饗宴が行われた。 大正以降は、一括して「大饗の儀」として執り行われている。
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