本検車区の発足まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 02:19 UTC 版)
東西線の検査業務は、最初の開業時には本格的な車両基地がなく、九段下駅付近に設置した側線を飯田橋検車区と称し、検査業務を行っていた(本検車区発足前は、飯田橋検車区の項目を参照)。さらに中野駅延伸後は、国鉄の三鷹電車区(現・JR東日本・三鷹車両センター)内に飯田橋検車区三鷹出張所を設置し、毎日検査と新車の受取検査を実施していた。車両数に対して、車両基地の収容数は大幅に不足しており、一部車両は豊田電車区(現・JR東日本豊田車両センター)に留置していた。中野駅終端部にあるY字形の引き上げ線においても、1966年(昭和41年)3月 - 1967年(昭和42年)9月まで検査線として使用していた。 東西線車両の定期検査(重要部検査・5000系1次車18両)は1966年(昭和41年)2月 - 5月に日比谷線の千住工場において実施をした。さらに同車両基地の拡張工事により、1967年(昭和42年)4月から翌1968年(昭和43年)3月にかけて竹ノ塚検車区で検査を実施した(7両編成22本・154両)。これは帝都高速度交通営団(当時の営団地下鉄)では他に検査ができる施設がないためであった。 検査を実施するため、中央線と山手線経由(豊田または三鷹→新宿経由品川→上野)で常磐線に入り、さらに北千住から東武伊勢崎線(当時、常磐線と伊勢崎線の線路は構内で接続していた)を経由し、折り返しのため草加まで下ってから、千住工場のある日比谷線南千住まで自力回送した(出場時は逆の経路となる・竹ノ塚検車区の入出場は草加を経由しない)。 深川検車区の発足により、飯田橋検車区は廃止され、深川工場の発足により、国鉄線経由での検査回送は廃止されている。 注:当時の法定検査周期は重要部検査が1年6か月または走行距離25万km以内、全般検査は3年以内と、現在よりも大幅に短かった。
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