未完の飛行場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:38 UTC 版)
北飛行場 (読谷飛行場) の維持と保安にあたっていた那覇分廠は、ほとんど沖縄県出身者で構成されていたが、1944年の十・十空襲後、第32軍の指揮下に入り、1945年3月以降は南部へ移動、与えられた装備もなく、多くの隊員が戦死したといわれている。北飛行場から撤退し南下の過程で、4月1日、首里石嶺で建設が中断している石嶺飛行場の守備を命ぜられた。 3月31日の夜、整備工の一部は本土から飛んで来る特攻機の整備のため飛行場に待機していたが、米軍上陸の4月1日、北飛行場から撤退して、風18918部隊(保安部)、誠19023部隊(旧分廠)は共に、久得山の壕に集結し、一泊した。その後の部隊の任務は、首里石嶺で建設途上にある石嶺飛行場の守備ということで、首里に向かって行軍した。現在の東南植物楽園辺りを通り、嘉間良の石橋は、友軍が壊してあったため、それまで乗用車に乗って移動していた隊長は、車を乗り捨てた。その後も行軍を続け、途中、中城村新垣で休憩し、首里石嶺の丘陵地帯(現在の石嶺団地)に着いた。 首里石嶺は、中城湾が眼下に一望できる所であった。女子工員もついて来ていたので、早速壕掘りにあたった。幸いにそこは掘抜き墓が並んでいたので、手を合わせて墓を開けて骨壷を外に出し、草を被せた。柩(ひつぎ)はそのまま残して、墓の天井から土を落として埋めて寝床を作った。夜になり、藤沢小尉、薄井軍曹と私の他五、六名が引率され、32軍司令部に兵器受領に行った。ところが渡された兵器は、小銃3丁に発火式手榴弾30発(雨にぬれたら使用できない)、竹槍30本くらいだった。 — 読谷村史 証言記録 その後も石嶺飛行場は使用されることなく、また那覇分廠も解散し、南部で弾薬運搬の任務を命じられるなどして多くの隊員が亡くなった。
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