朝貢貿易の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:31 UTC 版)
明との朝貢貿易では銀(渡唐銀)を輸出し、生糸を輸入した。薩摩藩には明から入手した生糸の他に、琉球産の砂糖や鬱金を輸出して鹿児島琉球館から銀を輸入した。薩摩藩との貿易では砂糖が主力商品であった。江戸幕府が元禄改鋳で発行した銀は銀含有率が低く、琉球は薩摩藩に交渉した。幕府は琉球王国に対して対馬藩と同じく慶長銀と同じ銀含有率への吹き替えを許可し、京都銀座が吹き替えを担当した。幕府が銀の輸出をさらに規制するために銅に切り替えたため、琉球は大坂銅座から入手して明に輸出した。外交儀礼として琉球からの使節に対して幕府から銀が贈られ、主な贈答は中山王の担当となった。 明の成化帝による朝貢制限以降から琉球貿易は低迷し、清へ運搬する船の費用維持も次第に困難となり、17世紀初頭の清の康熙年間の1611年から薩摩藩が資金援助するようになった。薩摩藩の琉球出兵の動きを知った明側は琉球の使節派遣を10年に1度に制約するなど頑なな態度を取っていたが、1634年には2年に1度に戻されている。 天和2年(1682年)に貨物を積んだ運搬船が2隻となってから、1688年には琉球の島津に対する負債が8千両を越し、これ以降は島津藩が琉球貿易の大半を支えるようになった。寛政12年(1800年)、薩摩藩は中山王の名のもとに幕府に貿易品の転売許可を申し出たが、江戸幕府の長崎貿易統制なども影響し、享和2年(1802年)10月に江戸幕府は貿易抑制策を出すとともにその貿易損害分の金額を琉球へ補填支払いし、琉球を助けた。 明や清国から日本へ生糸・薬種をもたらし、日本から中国へは銀、干鮑や昆布などの俵物をもたらした琉球貿易は幕末期(19世紀中期)に至るまで東アジアの貿易でひとつの役割を果たし、その資金援助をした薩摩藩の財政に対する貢献も大きかった。
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