朝貢貿易の衰えと東アジア世界の状況変化
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「琉球貿易」の記事における「朝貢貿易の衰えと東アジア世界の状況変化」の解説
15世紀前半頃までには朝貢貿易や南方との貿易により琉球王国は栄華を謳歌するが、次第に貿易相手国の政治状況や東シナ海の情勢変化に翻弄されていく。 15世紀、明の成化帝が朝貢品に対する支払いや一行在留等の煩雑さから朝貢制限へと方針転換し、明の成化10年(1474年)には2年に一貢とし、朝貢一行も100人以下と厳命したことで、16世紀に入ると琉球の朝貢貿易に陰りが見え始める。 16世紀、ポルトガルが東南アジアに進出し始めたころ情勢は大きく変わる。1511年、ポルトガルがマラッカを占領支配し、1522年に武力威嚇により海禁政策と関わりなく明との交易を開かせた。また明自体も諸事情により東シナ海の海禁を統制できなくなり、それにより後期倭寇が台頭、東シナ海の交易は武装海商を兼ねた後期倭寇が支配する事になる。これにより琉球船の活動が制約された。琉球から中国や朝鮮に向かう時にしばしば倭寇に襲撃、略奪された。朝貢貿易船は武装し、朝鮮への使節は倭寇(早田六郎次郎)に警固を依頼する有様であった。この頃の東シナ海は後期倭寇がジャンク船により交易を掌握していた。 さらに、マラッカ占領などにより東南アジア市場からも追われやがて交易を廃止、日本も対中国だけでなく南蛮貿易(後に朱印船貿易)に本格的に進出しはじめ、中継貿易が衰退し始めた。このように琉球貿易が衰微するとともに王国の国力は弱まり、日本への経済的従属がより進行する事となった。 また1523年には前述の大内氏と細川氏との間で日明貿易に関する勢力争いが激化し、ついには1523年寧波の乱で武力紛争となり日明貿易は一時断絶となる。後には室町幕府を通して再開するが、ここでも大内氏は主導的な役割を果たし、琉球王国を経由した明との交易を確保したり、ついには大内氏が日明貿易を再開させその独占権を得る。しかしその大内氏も陶晴賢の内訌により1557年に滅亡してしまう。これにより日明貿易が完全に途絶してしまい、日琉貿易関係にも島津氏が台頭してくるのである。
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