朝貢道と営州道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/12 11:38 UTC 版)
唐と渤海は130回〜160刊行物の交流するほど活発な交流をした。唐から渤海に30回の使者を派遣し、渤海から唐に100回程道使者を派遣した。 これらの使者の派遣はチャネルと陸路を通じて行われた。朝貢道は、その中で代表的なチャネルである。 『新唐書』渤海伝には、国都の上京を中心にして、各方面に至る交通路を説明しているが、その中で 朝貢道について「西京鴨緑府と接続するのは、朝貢道である」と記録されている。 朝貢道は、渤海の立場では登州道、鴨緑道と呼ばれることができた道だった。朝貢道は海路で西京鴨緑府過ぎ鴨緑江に沿って黄海を介して登州に到着する道である。 登州に放ち、新羅人が多く居住する所で渤海館、新羅館などがあった。これにより、登州を介して交流が頻繁た。 「営州道は上京の長嶺府を経て唐の営州都督府に至る道である」。 出発拠点では、現在の吉林省樺甸市の蘇密甸子にほとんどの学者が知っている。 具体的なパスは、『新唐書』地理志に引用された賈耽の『道里記』で詳しく示されている。上京から出発し、最初都であった敦化を通って長嶺府(現在の吉林省梅河口市の西)館内を通過して、瀋陽・黒山・北鎮・義県(当時の燕郡城)を経て営州に至る。これは上京から牡丹江に沿って南に移動し、第2松花江流域に入り営州に通じる道である。 これらの営州道はシルクロードの東の端が渤海とつながるとして朝鮮半島の「草原で東端」説、渤海の「シルクロード」説、渤海国の「シルクロード」説がある。
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