昭和道
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1934年(昭和9年)12月19日、紀勢東線(現在の紀勢本線)の三野瀬駅 - 尾鷲駅間が開通し、同年、峠道も本格的な改修に着手されると、1936年(昭和11年)、かつての峠道から南谷を回るルート(矢ノ川新道)を通る自動車道(県道松阪新宮線)が開通した(後に旧国道41号、二級国道170号を経て、現在の国道42号)。この1936年(昭和11年)から、鉄道省運営の省営バス(後に国鉄バス紀南線)が走り、紀勢本線が開通するまで、一日4便、片道2時間45分かけて運行していた。このバスからの眺めは熊野灘が一望できる絶景であった。自家用車が稀であったこの時代、矢ノ川峠の運行は、ほとんどがバスおよび木材を運搬するトラックであったとされる。1944年(昭和19年)になり、紀伊自動車が三重交通に統合されると、矢ノ川峠の明治道は昭和初期に設営された旅客索道とともに廃止された。 1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通の前日まで、矢ノ川峠には休憩所を兼ねた茶屋が存在したが、国鉄バスは、尾鷲駅 - 熊野市駅(旧・紀伊木本駅)間の開通により廃止となった。峠にある碑には「冬の日の ぬくもりやさし 茶屋のあと」の句とともに、かつて茶屋を営んだ女性の名が添えられている。 その後、1965年(昭和40年)より約30億円を要して、1968年(昭和43年)には、峠の南東の矢ノ川トンネル(標高320メートル、延長2,076メートル)とともに、弓山トンネル(延長137メートル)および新たに尾鷲市と熊野市の境を貫通する大又トンネル(延長1,626メートル)が通されたほか、トラス構造の千仞橋(せんじんばし)などの橋梁が架けられ、峠のおよそ400メートル下方に新たな道路が開通したことにより、国道42号線から外された。 現在、矢ノ川峠昭和道は、熊野市側で道路が決壊している区間があり、周辺区間も廃道化が進んで峠を越すことはできず、尾鷲市側も悪路で通行が危険であることから通行止めとなっている。
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