昭和の激動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:05 UTC 版)
1931年(昭和6年)、虎之助は維新の元勲、西郷従道の孫、従純を養子に迎える。満州事変が勃発すると、軍需産業が拡大し、1938年ごろ、古河財閥は空前の活況を呈する。日中戦争が進行する1939年(昭和14年)の一時期、虎之助は軍部の要請により、南京国民政府設立前の汪兆銘を西ケ原邸にかくまった。古河邸内部には忍者屋敷的な秘密構造もあった。 そうした中、虎之助は1940年(昭和15年)に「よう」(皮膚病の一種)を患い入院。その後、尿毒症を併発し、同年3月に53歳で没する。従純は37歳で古河財閥の4代当主となる。 太平洋戦争末期に西ケ原邸は陸軍第9師団の連隊本部将校宿舎として接収される。また、当主従純も応召する。東京大空襲による被害は建物、庭園ともに免れた。 終戦後は1952年(昭和27年)まで連合軍に接収される。この間、英国大使館付武官の宿舎とされたという記録が散見されるが、サンフランシスコ平和条約(1951年締結、1952年発効)以前、日本は独立国として承認されておらず、したがってイギリスの大使館は置かれないと考えられるので、誤りである可能性が大きい。
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