昭和の昇雲
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東陽堂主人の死を機に、明治45年(1912年)12月東陽堂を退社。大正期は日本画家として美人画を描いて注目を集めたが、大正15年第7回帝展に「当たり狂言楽屋振舞の図」を出したのを最後に、昭和元年(1926年)画壇から引退する。しかし、絵は亡くなるまで描き続けており作品数は相当な数に及ぶ。昭和19年(1944年)福井県福井市、ついで越前市に疎開。昇雲は求めに応じて絵を描き、地元の人々は昇雲の経歴を知らなかったが、子どもの希望でも快く応じる昇雲に野菜などの食べ物でお礼をしたという。昭和22年(1947年)疎開先から戻り、目黒区に転居し、市井で静かに絵を描き続けた。晩年再び注目され、昭和31年(1956年)8月『美術手帖』の紙上座談会に出席し、木村荘八・安藤鶴夫・槌田満文と対談。昭和36年(1961年)岩田専太郎や志村立美らの挿絵協会より挿絵の先駆者として表彰を受ける。昭和40年(1965年)昇雲は94歳の天寿を全うし世を去った。墓所は青山霊園。
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