昭和の採掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:39 UTC 版)
閉山の48年後の1947年(昭和22年)3月に再び採掘が始まった。戦後のエネルギー源不足により、日本全国で亜炭に採掘が盛んであった時期である。神戸市長田区に在住していた豊島征四郎が経営者となった。現場支配人は小川九一という人物が担った。この時の坑道は、小川九一の自宅裏より掘削し東側と南東側に20間(36.3メートル)ほど掘り進んだ。続いて小川九一宅に西下の小川定の水田の中央に深さ13メートルの井戸を掘り、その井戸の底から東側と南東側に坑道を掘った。12-13人の鉱夫が働き、約500トンを採掘した。この時に採掘された石炭も、明治期の採掘と同様に品質が悪く、亜炭が中心であった。発熱量は1500-2200kcalであったといわれ1トンあたり1500円程度で出荷された。燃料として単独で使用するのではなく、石炭に付け足す形で燃やされ、家庭用燃料として使用されたという。採算性が低いために、この昭和期の操業も1年10か月ほどで終わりを迎え、1948年(昭和23年)12月に閉山した。
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