明神と大祝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)
諏訪上社の祭神であるタケミナカタは神氏(じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。 明治の初め頃まで、諏訪上社には大祝(おおほうり)という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(タケミナカタ)の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。 伝承によると、諏訪明神が8歳の童男に自分の装束を着せて、自分の「御正体」として定めたことにより大祝職が成立した。このことから大祝は代々、御衣着祝(みそぎほうり)とも呼ばれ、「神」という姓を名乗り、即位式を行い職を相次いできた。 『信重解状』では、天降った後の諏訪明神のあり方としてこの伝承が語られているが、時代も初代大祝の名前が書かれていない。 一 大祝を以て御体と為す事右、大明神御垂迹以後、人神(ひとがみ)と現れ御(たま)ひ、国家の鎮護眼前たるの処、機限に鑒み、御体隠居の刻、御誓願に云はく、「我に別鉢無し、祝を以て御体と為すべし。我を拝せんと欲せば、須らく祝を見るべし」云々。仍て神字を以て祝の姓に与へ給ふの刻、明神の口筆を以て、祝をして神事の記文を注し置かしむ。(大宣(おほのつと)と号す)而して宗たる御神事の時は、毎年大祝彼の記文を読み上げ奉り、天下泰平の祈請を致す十ヶ度なり。社壇の明文只(ただ)之にあり。(原漢文) いっぽう『諏方大明神画詞』「祭第一 春上」と『神氏系図(前田氏本)』においては、有員という人が初代大祝とされている。 祝(はふり)は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。これ則ち御衣祝(みそぎはふり)有員(ありかず)、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。 他文献では、有員は桓武・平城天皇の時代の人物とされている。桓武天皇の皇子とする文書もある。なお、実在したかどうかは定かではなく、大祝家の始祖ではなく中興の祖とする説や、中世に創作された人物とする説がある(後述)。 これに対して『異本阿蘇氏系図』と『神氏系図(大祝家本)』は、科野国造家(金刺氏)出身の神子(くまこ)、または乙頴(おとえい)が初代大祝で、用明天皇2年(587年)に社壇を設けたとしている。『大祝家本神氏系図』では有員が神子の子孫とされている。
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