日韓・日朝関係の研究者の意見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 22:45 UTC 版)
「第一次教科書問題」の記事における「日韓・日朝関係の研究者の意見」の解説
鄭大均は、戦後における韓国と日本の「眺め合い」の関係を三段階に分けて捉えているが、第二期と第三期の境界にあたる出来事として、この問題を挙げている。なお、一期と二期の境界は日韓国交正常化としている。 在日朝鮮人2世である尹健次は、次のように記述している。 日本政府が戦後、教科書検定でもっとも問題としてきたのは、戦前のアジア侵略についての記述でした。「1982年教科書問題」と一般的によばれる「事件」がありますが、これはその年に、文部省がそれまでの検定姿勢を一段とつよめようとしたのにたいし、日本の良心的な学者や教員だけでなく、韓国政府・中国政府が反発して「外交問題」にまで発展したものです。/当時、文部省によれば、たとえば朝鮮近代の部分についていうと、朝鮮侵略は「進出」であり、朝鮮民衆の三・一独立運動は「暴動」であり、強制連行は「日本臣民」にたいする「合法的手続」によるものであり、創氏改名は「任意申請」であり、日本語使用の義務は「共用」であり、神社参拝の強要は「奨励」であったというのです。このときは「外交問題」にまでなったため、日本政府は一歩ゆずる姿勢を示していったん「解決」しますが、その後の経過をみると、文部省はそれ以前と同じく、一貫して過去の植民地支配を隠し、日本は戦争の「被害者」であるという検定姿勢をとっているといえます。
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