日本仏教史観の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 09:11 UTC 版)
史伝研究の盛んだった中国仏教の影響から、日本では奈良時代に『延暦僧録』などの僧伝が著された。鎌倉時代になると本格的な仏教史伝が著されるようになるが、中でも影響力が大きかったのが凝然の著した『三国仏法伝通縁起』である。この書は、インドから中国を経て日本へと伝播した仏教諸宗の教学を総合的に俯瞰したもので、その仏教史モデルは三国仏教史観として近代に至るまで長らく用いられた。 明治時代に入り、宗門外の仏教学者にも自由に仏教研究が行えるようになると、学術的視点を取り入れた新たな日本仏教通史が著されるようになる。明治末から大正時代には鎌倉新仏教の祖師たちが現役だった時期を日本仏教の頂点と考える、鎌倉新仏教中心史観が形成され始める。原勝郎は、日本仏教史とキリスト教史の発展段階を対比させた『東西の宗教改革』(1911年)を著し、国家仏教として出発した日本仏教が鎌倉期に頂点を迎え、その後衰退したという基本的な図式を示し大きな影響を与えた。 マルクス主義が隆盛した戦後の歴史学においても、鎌倉新仏教を反権力・民衆解放のムーブメントとして評価する、近代的な問題意識から見た鎌倉新仏教中心史観が家永三郎や井上光貞らの研究によって成果を上げ、長らく影響を与え続けた。しかし、1970年代から、黒田俊雄の『顕密体制論』を皮切りとして鎌倉新仏教中心史観への疑義が生じるようになる。黒田の『顕密体制論』は論争を呼び修正を余儀なくされたが、結果的に鎌倉新仏教中心史観を打破する転機となり、それまで旧仏教と呼ばれて軽視されていた中世の顕密仏教研究や、近世仏教堕落論の再検討が盛んとなった。
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