日本人の手で倶楽部を
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:06 UTC 版)
「東京ゴルフ倶楽部」の記事における「日本人の手で倶楽部を」の解説
大正時代の関東のゴルフ場は、1906年(明治39年)に横浜市の根岸競馬場に開場した「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA、通称・横浜根岸コース、9ホール)の一カ所しかなかった。「東京ゴルフ倶楽部」が駒沢村に開場されたのが1913年(大正2年)、日本で最初に開場された「神戸ゴルフ倶楽部」(兵庫県、1903年(明治36年)開場)の11年後だった。神戸と根岸の他には、「長崎県、雲仙ゴルフ場」(1913年(大正2年)開場)、「鳴尾ゴルフ倶楽部」(兵庫県、1920年(大正9年)開場)などが開場していた。 英国や米国でゴルフを覚えた日本人は、これらのゴルフ場でたまにプレーする程度であってため、満たされない思いがあった模様である。そうしたことから、東京の近郊に自分たちのゴルフ場を造ろうとの運動が始まった。この運動の中心になって推進したのが、1913年(大正2年)、英米でゴルフを覚えて帰国した横浜正金銀行頭取の井上準之助だった。井上の「ゴルフ倶楽部の建設を」との動きに、貴族院議員の樺山愛輔や横浜生糸の荒川新十郎らの賛同を得た。 井上は米英帰りの同好者に声をかけ、虎ノ門の社交倶楽部「東京倶楽部」の会員を勧誘して、「東京ゴルフ会(東京ゴルフ・アソシエーション)」を組織し、出資者を募った。井上、樺山、荒川のほか、村井銀行の村井五郎、帝国生命の朝吹常吉などが出資者となり、そのまま発起人となった。井上は心配していた、俱楽部が出来ても会員が集まらなければ、借地費用が払えない恐れがあったことである。要人に働きかけた結果、創立発起人は計45人となった。 また、井上は銀行家らしく、建設資金だけでなく他に3万5千円の資金を集めて、その資金で神戸の水道公債を求め、万が一経営が行き詰っても、公債の利子で地代が滞らないように準備された。しかし、井上の経理上の心配は全く当たらなかった、それどころか会員は増加する一方で、倶楽部は発展していった。駒沢コースの計画は、最初は9ホールの建設で、コース建設用地は3万坪、一月の地代は坪当たり5厘で借りることになった。地主との借地契約の調印は、地主の希望で井上の自宅で行われた、銀行の頭取の住まいがどんな物なのか確認したかったのである。
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