日本テレビ退職・渡米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:11 UTC 版)
井原は50歳になったら会社を辞めると公言していたこともあり、1980年6月6日、自身の51歳の誕生日に胆石の手術を理由にして日本テレビを退職する。同年7月1日、赤坂プリンスホテルにて「井原高忠 フェアウェル・パーティ」を開催。以後はハワイ州ホノルルの自宅マンションと東京を往復し、レビューの演出などフリーの立場で活動。 1985年、アメリカ合衆国の永住権を得てホノルルに定住。地元ラジオ局KOHOで番組制作の顧問としても活躍した。1990年、アメリカの市民権を取得し、米国籍となる。1992年(平成4年)、日テレの系列局である静岡第一テレビのハワイ現地法人・SDTの社長に就任。 20代でパイプカットの手術を受けており、自身には子供がいなかったため、ハワイに移住後、孤児院の18歳のフィリピン人少女を養子縁組して育てていたが、2006年に養女が結婚してアメリカ本土に移ったため、自らもジョージア州アトランタ郊外に移住した。 2014年9月14日、心臓の病気によりアトランタの病院で死去。85歳没。 井原の手がけた番組は団塊の世代から絶大な支持を受けていたが、晩年の井原は著書の中で団塊の世代について、馬鹿な教育を受けた最初の世代と厳しく批判している。 著書に、自伝『元祖テレビ屋大奮戦!』(1983年、文藝春秋)がある。
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