日本の台湾統治と台湾農業の発展とは? わかりやすく解説

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日本の台湾統治と台湾農業の発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:30 UTC 版)

農業は台湾、工業は日本」の記事における「日本の台湾統治と台湾農業の発展」の解説

日本統治下の台湾における日本政府および台湾総督府基本政策は、台湾農業発展尽力し日本本土食糧需要満たす一方で日本本土工業製品台湾供給しようとするものであった。この基本政策により台湾日本産業原料供給地であるとともに海外市場となったのである台湾主要な農作物であった米、砂糖生産をはじめ、農作積極的に奨励するという政策台湾統治初期より台湾総督府によりとられた。まず、砂糖にあって1896年明治29年総督府は、早くも甘蔗品種改良着手した1898年明治31年児玉源太郎台湾総督に、後藤新平民政長官就任すると、台湾植民政策中心産業振興に置き、そのまた中心に糖業奨励置いたその結果1900年明治33年12月10日台湾最初新式製糖工場をもつ「台湾製糖株式会社」が設立された。翌1901年明治34年9月には後藤招聘により総督府糖業局長にあった新渡戸稲造により「糖業改良意見書」が提出され、その建議大部分実現された。米にあっては1927年昭和2年)の蓬萊米誕生以降日本内地移出されるものが急増した同時に農業教育農業人材の育成図った1919年大正8年)には、台湾人子弟対象とした「農林専門学校」を創立したその後田畑水利事業進め台湾アジア田畑水利の最も発達した地区にした。日本統治直後台湾水田面積は20.1ヘクタールであったのが、1938年昭和13年)には54.3ヘクタールと実に2.7倍になっている水利事業代表例1930年昭和5年4月10日竣工した嘉南大圳」である。嘉南大圳は、1920年大正9年着工10年間かけて完成した当時総工費8000万円は、現在の1000億円以上に相当する中核をなす烏山頭ダムは有効貯水1億5000立法メートルここから1万6000キロメートル用水路巡らしそれまで天水田しかなかった嘉南平野原野15ヘクタール豊かな美田変わったのである

※この「日本の台湾統治と台湾農業の発展」の解説は、「農業は台湾、工業は日本」の解説の一部です。
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