日本におけるブギ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 07:38 UTC 版)
1947年、作曲家服部良一は終戦直後一面焼野原となった銀座で「星の流れに」を耳にし、ブルースをイメージする。「『焼け跡のブルース』はどうだろう。」 意見を求められたジャズ評論家、野川香文は「今はブルースではない、明るいリズムで行くべき。」と助言、服部は戦時中に楽譜を入手していたアンドリューズ・シスターズの「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」を思い出す。1948年1月、鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱による「東京ブギウギ」発売。明るく開放的なこの歌は大きな反響を呼び、その後の一連のブギウギ作品と共に一世を風靡する。 1948年、服部は当時専属だったビクターから「市丸にブギを書いて欲しい」と依頼される。市丸は浅草の人気芸者から1931年ビクター入り、小唄勝太郎と共に「うぐいす歌手」として活躍するスター歌手だった。丸髷姿で純日本調の曲を歌うため首を動かすことすら止められていたが、「東京ブギウギ」を派手なアクションで歌う笠置シヅ子に刺激を受ける。「私もこんな風に動いてみたい」、彼女のそんな思いからの作曲依頼だった。1949年、「三味線ブギウギ」発売。裾を持ち上げ踊りながら歌う市丸に世間はアッと驚いた。服部良一の回想。「市丸さんはきれいだしリズムに強いから、モダン芸者として当たるだろうと自信を持って作ったんです。なにもかも初めてづくしなのに市丸さんは頑張りましたよ。予想通りヒットしましたが、あとで中山晋平先生が『時代が時代だからといって、市丸にあんな歌を歌わせることはないじゃないか』と怒っていたそうです。」
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