日月神示の降ろされた時代背景
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「日月神示」の記事における「日月神示の降ろされた時代背景」の解説
第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史のことを聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた[要出典]。扶乩(フーチ)とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人が一組になって行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一など、十数名であった。その場において審神者(サニワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中のため、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。 (※この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説[誰?]がある。) この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺うことを天明に促し求めたといわれている[要出典]。しかし、それは天明によって無事に回避されたという。「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語ったことと、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせたことであった。神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかったはずだが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていたために終戦時に自決を思いとどまった者も多く居たという[要出典]。
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