文禄・慶長の役と五大老就任
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「毛利輝元」の記事における「文禄・慶長の役と五大老就任」の解説
文禄元年(1592年)2月、輝元は秀吉の朝鮮出兵に応じ、朝鮮へと渡海するために広島城を出発した。その後、4月に小西行長が先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3万の軍勢は六番隊として朝鮮に入り、5月に星州に布陣した。 6月、輝元は開寧に陣を進め、五番隊と連携して日本軍連絡線の守備に就いた。開城陥落後、諸将は漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、輝元は七番隊として慶尚道を制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦いや8月の第一次星州城の戦い、9月の第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍と激戦を繰り広げた。 文禄2年(1593年)3月、日本と朝鮮の援軍たる明との間で講和交渉が進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した。 文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次が高野山で切腹させられる、いわゆる秀次事件が発生した。この事件は、輝元と秀次がかつて交わしたという誓約が発端となっているとされてきた。しかしながら、小瀬甫庵の『太閤記』に記されているような輝元と秀次が誓紙を交わしたとする確証は存在しない、とする反論がある。 同年8月、輝元は秀次事件を克服しようと考える秀吉より、徳川家康らとともに五大老に任じられた。このとき、輝元と秀次との誓約が先の事件の発端となったため、御掟五ヶ条が発令され、諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止された。 同年10月18日、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生した。だが、輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇が問題となった。 慶長2年(1597年)2月、秀吉は明との和平交渉が決裂したことで再度の朝鮮出兵を命じ、西国諸将に動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力は文禄の役と同じ3万であり、秀元もまた輝元と同様に各地で奮戦している。
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