文明17年・南都仏地院
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「中世の寝殿造」の記事における「文明17年・南都仏地院」の解説
応仁の乱の後、寝殿に代わるものとしていわゆる主殿が登場する。画像a40はその代表例で文明17年(1485)に仏地院に造立された主殿である。仏地院は南都・興福寺の院家(いんげ)である。 西の侍廊、南に突き出る中門廊を除いた主殿は桁行九間、梁間六間である。ただし柱間一丈(10尺)ではなく六尺六寸、つまり約2mで、柱間一丈ベースの2/3、かつての三間四面西孫庇付とほぼ同じ広さである。もはや「母屋・庇の構造」(画像110)は完全に失われ、建物は間面記法では表せなくなっている。そして寝殿とは呼ばれずに主殿と呼ばれている。 これを先出の義教の室町殿寝殿(画像080)と比較すると、寝殿から正門にかけての構成を中門から北に限れば、寝殿・公卿座・中門廊・殿上であったものが、主殿・中門廊(左下六坪)・侍上(左上の六間)に変わっている。主殿は寝殿、侍廊は殿上に対応するので公卿座が無くなっているように見えるが、実は公卿座は画像a40では主殿の左端、黄色の六間がそれにあたる。つまり縮小されて主殿内に取り込まれているだけで、寝殿・公卿座・中門廊・殿上という関係・用途は維持されている。 主殿に目を転じると、屋内を南と北に大きく二分する並戸が設けられ、そして並戸以北が塗籍をはじめ諸室に細分されている様子が室町殿寝殿と共通する。両殿との相違は並戸以南の母屋・庇の別の解消が一番大きい。並戸の南の古代的形式が薄れた処に、並戸の北において発展してきた建築様式や建具が全面的に進出した。 仏地院では柱はすべて五寸角の角柱、内外の仕切建具、畳の敷詰、そして間取りの諸点において、のちの書院造の形式に接近している。川上貢はこう書く。 仏地院主殿平面からうかがえることは、これもまた前出の諸寝殿に成立する類型に属して、乱後における諸情勢の変化を反映したところの形式の発展変形を示すものであり、そして近世書院造主殿成立への方向を指向するものと言える。つまり、仏地院主殿平面は応仁乱後に突然出現したものでなくて、平安時代にさかのぼる寝殿平面が、鎌倉時代、南北朝時代そして室町時代初期の長い年月をかけて、継続的に徐々に発展しながら成立をみたものであった。 この仏地院平面に見られる様式が、平安時代以来の寝殿造と、後の書院造のちょうど接点になっている。つまりは、書院造は寝殿造から生まれたというのが川上貢の『日本中世住宅の研究』の論旨であり、そしてその説はほとんどの建築史研究者に支持され、既に定説となっている。
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