文明17年・南都仏地院とは? わかりやすく解説

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文明17年・南都仏地院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)

中世の寝殿造」の記事における「文明17年・南都仏地院」の解説

応仁の乱の後、寝殿代わるものとしていわゆる主殿登場する画像a40はその代表例文明17年(1485)に仏地院に造立された主殿である。仏地院は南都興福寺院家(いんげ)である。 西の侍廊、南に突き出る中門廊除いた主殿桁行九間、梁間六間である。ただし柱間一丈(10尺)ではなく六尺六寸、つまり約2mで、柱間一丈ベース2/3、かつての三間四面西孫庇付とほぼ同じ広さである。もはや「母屋・庇の構造」(画像110)は完全に失われ建物間面記法では表せなくなっている。そして寝殿とは呼ばれずに主殿呼ばれている。 これを先出義教室町殿寝殿(画像080)と比較すると、寝殿から正門にかけての構成中門から北に限れば、寝殿公卿座・中門廊殿上であったものが、主殿中門廊左下六坪)・侍上(左上の六間)に変わっている主殿寝殿侍廊殿上対応するので公卿座が無くなっているように見えるが、実は公卿座は画像a40では主殿左端黄色の六間がそれにあたる。つまり縮小され主殿内に取り込まれているだけで、寝殿公卿座・中門廊殿上という関係・用途維持されている。 主殿に目を転じると、屋内を南と北に大きく二分する並戸が設けられ、そして並戸以北が塗籍をはじめ諸室に細分されている様子室町殿寝殿共通する。両殿との相違は並戸以南母屋・庇の別の解消が一番大きい。並戸の南の古代的形式薄れた処に、並戸の北において発展してきた建築様式建具全面的に進出した仏地院でははすべて五寸角の角柱内外仕切建具、畳の敷詰、そして間取り諸点において、のちの書院造形式接近している。川上貢はこう書く。 仏地院主殿平面からうかがえることは、これもまた前出の諸寝殿成立する類型属して乱後における諸情勢変化反映したところの形式発展変形を示すものであり、そして近世書院造主殿成立への方向指向するものと言える。つまり、仏地院主殿平面応仁乱後に突然出現したものでなくて、平安時代さかのぼ寝殿平面が、鎌倉時代南北朝時代そして室町時代初期長い年月をかけて、継続的に徐々に発展しながら成立をみたものであった。 この仏地平面見られる様式が、平安時代以来寝殿造と、後の書院造のちょう接点になっている。つまりは、書院造寝殿造から生まれたというのが川上貢の『日本中世住宅研究』の論旨であり、そしてその説はほとんどの建築史研究者支持され、既に定説となっている。

※この「文明17年・南都仏地院」の解説は、「中世の寝殿造」の解説の一部です。
「文明17年・南都仏地院」を含む「中世の寝殿造」の記事については、「中世の寝殿造」の概要を参照ください。

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