散髪脱刀令
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散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム | |
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![]() 日本の法令 | |
通称・略称 | 散髪脱刀令、断髪令 |
法令番号 | 明治4年8月9日太政官 |
種類 | 憲法 |
公布 | 1871年9月23日 |
条文リンク | 法令全書 明治4年【太政官第399】 |
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散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい、明治4年8月9日太政官)は、髪型および帯刀に関する法令である。断髪令(だんぱつれい)とも通称される。
1871年9月23日(明治4年8月9日)に太政官によって公布された。
布告の内容


この法令は「散髪制服略服脱刀共可為勝手事」として髪型については自由にしたうえ、華族・士族が刀を差さなくても構わないとした。なお、平民の帯刀については1871年2月16日(同年12月27日)に改めて禁止令を出している。
一方で、「但禮服ノ節ハ帯刀可致事」では、礼服では引き続きは帯刀するべきとしている。
影響
当時は幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあった。
散髪脱刀令は「髪型を自由にして構わない」という布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかったが[1]、1873年(明治6年3月)には明治天皇が散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。
一方で、島津久光・忠義親子や榊原鍵吉のように布告以降も髷を結った者もいた。忠義は髷姿で大日本帝国憲法発布式典に出席している。また、政府の重鎮であった岩倉具視は、1871年(明治4年11月)に岩倉使節団を率いた際にも、横浜を発った時は髷を結ったままだった。その後、シカゴで散髪をしている[2]。
しかし、改革推進派の県令(県知事)が着任した地域では髷が厳しく取り締まられた[1]。 1873年(明治6年3月)敦賀県(現在の福井県)では、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が発生し、6人が騒乱罪で死刑となっている[3]。この一揆は、嶺北地方の坂井・大野・今立郡に及んだ。
散髪脱刀令は男性の髪型を対象とした法令であったが、「女子も散髪すべきである」と誤解され女性が男性同様の短髪にすることがあったため、1872年5月11日(明治5年4月5日)に東京府が「女子断髪禁止令」を出した。
脚注
関連項目
外部リンク
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- 『散髪脱刀令』 - コトバンク
散髪脱刀令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:56 UTC 版)
明治4年8月9日(1871年9月23日)に散髪脱刀令(いわゆる断髪令)が太政官布告され、さらに明治6年(1873年)、明治天皇の断髪に至ると、伝統的な男髷を結う男性が激減し、洋髪やざんぎり頭が流行した。 山川菊栄は著書『武家の女性』で母方の祖父に当たる青山延寿が維新前には髷結いにとても苦労していたが、維新後、毎日の髷結いから解放されたエピソードを取り上げている。 一方、丁髷に対する愛着や誇りから散髪に消極的な者もいた。それでもなお保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。
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