教会文化:聖歌・イコン・絵画(19世紀~20世紀初頭)
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19世紀も後半に入ると、教会文化が豊かに花開いた。 聖歌の面ではロシア・正教会の伝統を復興しようとした人々によって新たな地平が切り開かれた。初めてロシア聖歌に混声合唱を取り入れ、古典聖歌の研究も行っていたアレクサンドル・アルハンゲルスキーといった聖歌作曲家のほか、世俗の作曲家にもニコライ・リムスキー=コルサコフをはじめとして伝統的聖歌の復興を模索する人々が現れた。この時代、多くの作曲家が正教会の聖歌を作曲している(Category:正教会聖歌作曲家を参照)。19世紀末から20世紀初頭にかけてはパーヴェル・チェスノコフが活躍。チェスノコフは多作な聖歌作曲家であり、特に重低音を活かした聖歌を得意とした。 19世紀ロシア聖歌の伝統復興の模索はまだ不十分であり、西欧的聖歌からは脱却していないとする見解も存在するが、イタリア音楽のほとんどコピーであった18世紀の聖歌と違い、この時代の聖歌には現代でも正教会の伝統に則ったスタンダードとして歌われるものも多い。 イコンについてもイタリア・ルネッサンスの影響を脱してビザンチンの伝統が見直される運動が始められた。他方、世俗絵画の領域では西欧的な手法を用いつつも題材を正教会に則った作品の数々が生み出されていった。宗教的象徴主義の代表的指導者といわれるミハイル・ネステロフ、ワシーリー・スリコフ、ヴィクトル・ヴァスネツォフなどが有名であるが、彼らは世俗絵画の他に大聖堂のフレスコ画も手がけた。 アレクサンドル・アルハンゲルスキーとヴィクトル・ヴァスネツォフの父は正教会の司祭であり、同時代のI.S.ベーリュスチン神父が告発したような「無教養で堕落したロシアの司祭」というようなイメージとは異なる人々がそうした階層からも生み出されていたことが窺える。 19世紀のロシア正教会の教会文化は、その時期に伝道された日本ハリストス正教会に今日に至るまで多大な影響を及ぼしている。ボルトニャンスキー、アルハンゲルスキーの聖歌は今もなお日本正教会で広く歌われている。この転換期に留学したイリナ山下りんが「イタリヤ画」を好み、ビザンチンイコンを「おばけ絵」として嫌っていたという逸話も、両方の様式が混在していた時代背景があればこそであった。 これらの19世紀のロシア正教会文化については、その西欧化と伝統継承の度合い、及びその是非を巡り、多様な温度差を伴う賛否両論がある。 以下の絵画はイコンではないが、正教に題材をとる世俗絵画である。 『曠野のイイスス・ハリストス』(イワン・クラムスコイ) 『復活』(ハリストスの地獄降り)(ヴィクトル・ヴァスネツォフ) 『クルスク県の復活大祭の十字行』(イリヤ・レーピン) 『若きヴァルフォロメイの聖なる光景』(ミハイル・ネステロフ)
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