ミハイル・ネステロフとは? わかりやすく解説

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ミハイル・ネステロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/18 08:03 UTC 版)

ミハイル・ネステロフ
Михаил Нестеров
生誕 1862年5月19日ユリウス暦
ロシア帝国ウファ
死没 1942年10月18日
ソビエト連邦モスクワ
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ミハイル・ヴァシリイェヴィチ・ネステロフ(またはネスチェロフМихаи́л Васи́льевич Не́стеров, 1862年5月19日グレゴリオ暦5月31日ウファ - 1942年10月18日 モスクワ)は、19世紀末のロシア画壇における宗教的象徴主義の代表的指導者。

略歴

現在はバシコルトスタン共和国の首府であるウファで工場経営者で貿易を営む父親のもとに生まれた。ウファの高校で学んだ後、1874年にモスクワに移り、1877年にモスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学した。パベル・ソロキン(Pavel Sorokin)やイラリオン・プリャニシニコフヴァシリー・ペロフに学び、ペロフから影響を受けた。3年間学んだ後、1881年にサンクトペテルブルクに移り、帝国美術アカデミーでパヴェル・チスチャコフに学び、1882年にモスクワに戻った。1889年に芸術家集団「移動派に参加する。ラドネジのセルギイの回心を描いた絵画「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」(1890年1891年)は、しばしばロシア象徴主義運動の幕開けを告げる作品と見なされている。1890年から1910年までキエフサンクトペテルブルクに暮らして、聖ウラジーミル大聖堂血の上の救世主教会のそれぞれのフレスコ画制作に取り組んだ。1910年にマルフォ=マリインスキー女子修道院に隠遁し肖像画を描き続け、ロシア革命後も残留。1938年に一時拘束されながらも2週間で釈放され、モスクワで生涯を閉じた。

絵画

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