改築の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 23:19 UTC 版)
まず、神奈川県が1918年(大正7年)6月に「1號國道改修事務所」を設置し、同年7月に六郷橋から生麦までの区間の工事が着手され、東京府が1920年(大正9年)6月1日に「國道改修事務所」を設置し、八ツ山橋から六郷橋までの工事が着手される。そして、1925年(大正14年)8月3日に六郷橋と六郷橋から生麦までの区間が完成、1927年(昭和2年)11月28日に八ツ山橋から六郷橋までの区間が完成する。なお、1919年(大正8年)と1921年(大正10年)に幅員を広くする工事変更を行っている。改築費用は東京府と神奈川県が負担したが、内務省土木局の道路改良費から改築費用の2分の1の補助を、六郷橋は3分の1の補助を受けている。 その後、1923年(大正12年)9月28日に関東大震災の復興事業とされ、帝都復興院が1924年(大正13年)に生麦から表高島までの区間の改築に着手し、1930年(昭和5年)10月の京浜国道の改築完成となる。 この京浜国道の改築は、改築と同時に鉄道との交差のすべてを立体交差とする計画であり、電柱も全て排するとしていた。しかし、京浜電気鉄道本線との鈴ヶ森での交差、京浜電気鉄道大師線との六郷橋南詰での交差は立体交差にする工事が行われたが、京浜電気鉄道本線との八ツ山橋での併用軌道、および、京浜電気鉄道穴守線や海岸電気軌道との交差は平面交差のままとなり、電柱も排されることが無かった。立体交差の計画において、東京府や神奈川県、内務省、鉄道省の無計画さにより平面交差の箇所が残ることになり、せっかく巨費を投じての改築が意味を成していない結果となる。また、電柱を排することについても、逓信省が例外を認めたために警視庁から例外を要求され、そして、東京電燈や東京市電気局など次々と要求が拡大していく結果になる。
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