採掘の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
前述のように1918年に東洋製糖が本格的なリン鉱山開発を始めた段階では、島の北西端の黒部岬付近のリン酸三石灰鉱を採掘する予定であった。しかし黒部岬のリン酸三石灰鉱は資源量が少なく、1919年11月に、当時神社が建てられていたため大神宮山と呼ばれていた島内最高地点付近にリン酸三石灰鉱の露頭が発見されたため、神社の移転後に採掘が行なわれるようになった。なお大神宮山は後に黄金山と改名された。 北大東島のリン鉱石採掘はその利用方法が確立された後は、資源量が豊富なリン酸礬土鉱の採掘へとシフトした。北大東島での主要なリン鉱石採掘場となった玉置平には1区から5区の計5つの鉱区が設定され、露天掘りでリン酸礬土鉱の採掘が進められた。年代によって人数の上下はあったが、平均して約300名の鉱夫が採掘に従事していた。なお玉置平は北大東島の開拓開始後、いったんは農地として利用されていたが、リン酸礬土鉱の埋蔵が確認された後に開拓農民を移住させた上で鉱山となった。 1919年の採掘開始から昭和初期にかけては、リン酸の含有量が40パーセント前後の良鉱を採掘対象としていた。露天掘りは階段式の段差を設けながら掘り進められ、鉱夫がツルハシや鍬などの人力で採掘した。採掘自体は比較的容易で火薬類の使用の必要はなかった。しかし採掘場所が深度になるにつれて、鉱夫は深くなった竪坑の底で採掘されたリン鉱石を担ぎ上げねばなければならなくなり、採掘上の困難は増した。採掘現場では海水が染み出すほど深く掘り下げ、土質であるリン鉱石の採掘作業を行うと顔や体は真っ白になった。 採掘作業は請負制であった。そのため採掘現場に隣接して計量所が設けられ、鉱山の係員が目方を計測、記録した。鉱夫一名あたり一日約2トンの鉱石の採掘を行ったが、相当な重労働であった。計量後、鉱石はまず運搬用の軌道の側に積み上げられた。 一方、リン酸三石灰鉱についてはリン鉱石の価格の低迷と採掘が困難となった上に、リン酸礬土鉱に比べて選鉱が困難であったこともあって1926年度には採掘が中止された。リン酸三石灰鉱は土中に混入している塊状、礫状、砂状の鉱石をふるい分け、水洗により選鉱をしていたため、どうしても経費が多くかかることになった。なおリン酸三石灰鉱の採掘は1932年度に再開されている。
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