戴冠の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 14:53 UTC 版)
「スクーン (スコットランド)」の記事における「戴冠の地」の解説
タラのように、スクーンは土着の王たちの儀式や伝統のいくつかと関連付けられてきた。『世界各地の原始的な王制と結びついた、古い豊穣の儀式』であったとD・A・ビンチー(en)は述べている。スクーンがピクト人支配時代にこの種のものと関係していなかったことは確かであり、後にやってきたスコット人の王たちが努力して結び付けてきたのである。遅くとも13世紀には、スクーンの石と呼ばれる戴冠式の石の存在があった。石はもともとSimón Breccによってタラにもたらされたものであり、後世になって彼の子孫Fergus mac Ferchairがアルバ王国を征服後にスコットランドに持ち込んだ。このような戴冠の石の優位性は古くからの戴冠の地と関係があり、タラのみならず、中世アイルランド各地にある戴冠ゆかりの地と関連があった。このような反キリスト教儀式は、12世紀のスコットランドの隣国にあたるイングランド、フランスといった新興国世界においては、悪名高いものとなっていた。 12世紀のスコットランド王たちが、次第にゲール人でなくむしろフランス人化していったことは、スクーンの役割に対し脅威であった。イングランドの修道士で年代記作者であるコヴェントリーのウォルター(en)は、ウィリアム1世時代に『現在のスコットランド王たちは、自らを人種、習慣、言語、文化においてフランス人になぞらえている。彼らは王室の官吏と従者をフランス人のみでまかなっており、使用人からスコットランド人を減らしている。』と述べている。誇張はあるものの、これは真実である。1124年夏に戴冠のためスクーンを訪れたデイヴィッド1世が(彼はノルマン文化に触れて育った)、最初に儀式参加を拒否したのは、明らかに上記の理由からである。デイヴィッド1世の友であり、一時は廷臣であったリーヴォーのエルレッドによれば、デイヴィッド1世は『スコットランドの部族たちが、王が即位した際の臣従を表す行為を彼らの父祖のやり方で行うことを、司教たちに臣従の誓いを受け取るよう強要され苦労するほど』、忌み嫌っていた 。必然的に、儀式や信仰の中心地であるスクーンの重要性に影響を与えたが、戴冠式はそれでも13世紀中にいくつかの改新だけが加えられて保存された。スコットランドの歴代王たちは、王国の終わりまでこの地で戴冠を行った 。さらに中世後期までは、王たちはスクーンに滞在し、議会が開かれ、スコットランド史における重要な議会のいくつかはここで開かれた。
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