戴冠と相次ぐ反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:57 UTC 版)
「オットー1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「戴冠と相次ぐ反乱」の解説
936年、ハインリヒ1世が没すると、諸大公はオットーを自分達の王として戴くことを承認した。ただ一人、母のマティルデのみはこれに反対し、弟のハインリヒこそ国王に相応しいと主張した。 オットーはカール大帝に倣い、戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行する。そこで塗油の儀を受けることにより、自分がカール大帝の遺志を継ぐ者であることを世に示した。 諸大公を「わが盟友」と呼んで対等に扱ったハインリヒ1世とは異なり、オットー1世はあくまで上に立つ者としての姿勢を貫いた。それに不満を持つ者も多く現れはじめ、938年から翌年にかけて反乱が続発する。世から忘れ去られていたオットー1世の異母兄タンクマールや、弟のハインリヒが反乱軍の旗印として掲げられた。主な加担者は、フランケン大公エーバーハルト、ロートリンゲン公ギゼルベルト、そしてバイエルン大公エーバーハルトなどである。 苦戦するオットー1世のもとにシュヴァーベン大公ヘルマン1世が応援に駆けつけ、これによって彼は危機を脱した。異母兄タンクマールと反乱の加担者達は戦死、または亡命した。弟ハインリヒのみは母マティルデのとりなしで、この時は咎めを受けなかったが、941年に再び兄の暗殺を計画して修道院に幽閉されることになる。
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