愛称決定と特別塗装の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)
「ブルーインパルス」の記事における「愛称決定と特別塗装の導入」の解説
同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ、このときに初めてスモークが使用された。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで「天竜」という愛称が採用されることになった。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上、古臭いという意見もあった。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという。 こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月21日、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった。 この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした。 この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ、派手さにも欠けていた。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ、1961年(昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された。 1963年(昭和38年)9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された。
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