愛知一中校長
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1899年(明治32年)、母校である愛知一中の校長に就任した。 当時の同校は、生徒が教師を排斥したり、ストライキを打ったりといった状況にあった。当時の中学校の多くでは「蛮風・侠気」の生徒が横行し学校騒動が頻発していたが:40、愛知一中については寄宿舎規則が極度に厳しく生徒の自由を束縛しているという状況があったようである:41。校長排斥運動により空席となった校長の後任に頭を悩ませた愛知県知事沖守固が、文部次官奥田義人(愛知一中の前身の一つである愛知英語学校の卒業生)に人選を依頼し、奥田の推薦で日比野が就任することとなった:40。混乱した母校の状況を聞いて日比野が自薦したともいう:40。 日比野は教育界出身ではないが:41、愛知県や文部省が愛知一中の「正常化」を日比野に託したといえる。日比野の教育理念は「抱き鯉主義」(水に入って鯉の泳ぎと共にこれをつかまえるように、教育も生徒の中に入って指導する)と評され、着任第一日目にテニスコートに立ったという。 日比野は同校の生徒指導に運動を取り入れた。特に「病める者は医者へ行け、弱き者は歩け、健康な者は走れ、強壮な者は競走せよ」と呼び掛け、生徒たちのエネルギーを勉学だけではなくスポーツに向かわせた。日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入したとされ、自らも生徒と共に毎日2時間のマラソンを始めた(これは死の直前まで続けた)。故に日比野には「マラソン校長」の異名が付けられた。日比野の指導もあり、やがて愛知一中の風紀は収まると同時に同校は日本を代表するスポーツ強豪校となった。1911年には日本最初の生徒長距離競走を実施した。 一中校長を務めるかたわら、1908年には「不遇な者の育英」を掲げて有力者の賛助を得、「育英学校」を設立した。
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