愛知一中校長退職後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 09:25 UTC 版)
1916年に愛知一中を退職後、1917年に憲政会から第13回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。議員を務める傍ら、引き続きマラソンの指導にも力をいれ「上体はまっすぐ、運動は手と足で行なう」とする「日比野式走法」の普及に努め、国内のみならず海外でもマラソン指導に情熱を注いだ。 1917年4月27日に開催された、最初の駅伝競走とされる「東海道駅伝徒歩競争」に、50歳にして中部組のアンカーとして参加し、大変な話題となった。 1922年、「育英学校」を改組し「名古屋育英商業学校」を設立。体育第一主義を掲げていたようである。しかし名古屋育英商業学校は経営に行き詰まり、日比野は私学経営から撤退した。 1950年、脳出血のため亡くなった。
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