愛知(哲学)の「学習の程度」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 08:48 UTC 版)
「恋敵 (対話篇)」の記事における「愛知(哲学)の「学習の程度」」の解説
ソクラテスが「愛知(哲学)」が何であるか問うと、文芸の男は「多くを学び知ること(博学)」だと答える。 続いてソクラテスが、「愛知(哲学)」は「立派」である上に、「善いもの」であるかどうか問うと、男は同意する。さらにソクラテスは、「愛知(哲学)」だけでなく、「体育」に対する愛(体育愛)など、他の技術に対する愛も同様に「善いもの」であるかどうか問うと、文芸の男は同意する。 するとソクラテスは、「愛知(哲学)」において勉学を重ねて労苦を多くすることが志向されるのと同様に、「体育」の場合も練習を重ねて「身体」を痛めつけ労苦を多くすることが志向されるのか問うと、文芸の男は同意する。ソクラテスが、それは「身体」を「善くする」ことになるのか問うと、文芸の男は肯定する。しかしソクラテスがこのことを体育の男の方に問うと、体育の男は「適度(ほどほど)の痛めつけ」が「身体」を「善くする」ことは豚でも知っていると、文芸の男を嘲笑し、文芸の男は赤面する。ソクラテスに再度問われて、文芸の男は「適度(ほどほど)」へと意見を修正する。 ソクラテスは文芸の男に、食事など「身体」に関わる他の事柄でも同じように問い、全て「適度」が望ましいという回答を得た後、「魂」に関しても同様に問い、学問もやはり「適度」が望ましいという回答を得る。 続いてソクラテスが、「身体」の「適度」については医者や体育教師に尋ねればいいが、「魂」に関する学問の「適度」は誰に尋ねたらいいか問うと、2人はうまく答えられず行き詰まってしまう。
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