心理学者の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 19:16 UTC 版)
「ティモシー・リアリー」の記事における「心理学者の道へ」の解説
ティモシー・リアリーは、1920年10月22日にマサチューセッツ州スプリングフィールドで生まれた。1936年に入学したスプリングフィールドのクラシカル高校では生徒会長と学校新聞の編集長を務めたが、新聞で学校の全体主義を批判し校長からの大学の推薦の機会を失う。イエズス会系の神学校ホーリークロス大学で2年過ごした後、ウエストポイント陸軍士官学校に入り、軍隊的組織のなか上官に逆らったことが原因で組織的な無視を受け、無視の無罪を発表されるかわりに学校を去ることにした。『ユリシーズ』を読み、衝撃を受ける。おじに再び大学に行くよう説得され今度は共学にすると決め、アラバマ大学の心理学部に入学しディー教授のもとで学ぶが、ガールフレンドの女子寮に忍び込んだことが原因で退学になる。 1943年、徴兵命令でヴァージニア州ユスティス基地に配属され、しばらくすると心理学の課程を修了させるという軍の方針で、ジョージタウン大学で3ヶ月、オハイオ州立大学で6ヶ月学び、精神分析コンサルタントとして転属したあと、軍病院で精神科医となったディー教授に再会しペンシルベニアの軍病院に移る。配属先で、後に妻になるマリアンヌに出会い同棲をはじめ、マリアンヌと一緒にワシントン州立大学で心理学の修士号をとり、リアリーはさらにバークレー大学の心理学博士の課程に入学する。リアリーは患者の意図抜きで決定していく精神療法に疑問を抱いており、当時は患者同士に治療を行わせるおかしなものだと捉えられていた集団精神療法というのが提唱されてきたのを機に、言語による人間同士の相互作用が観測できると思い、この研究を開始する。精神科医のハリー・スタック・サリヴァンが主張した、対人間の相互作用で人格が構築されるという理論を進展させ、また人格検査のモデルも作った。研究に参加していた女性と不倫関係になり、1955年には妻マリアンヌは自殺する。カイザー基金病院の心理学研究所理事長の地位を捨て、ヨーロッパを放浪する。 この頃書いた、『人格の人間関係的診断』(IDP, Interpersonal Diagnosis of Personality )は、1957年の精神療法で最高の研究と評された。IDPは、患者自らが自分の性格や自分のゲームの役割を探求し、患者に自己決定させ、患者と心理学者を対等に扱い自然な環境の中でやり取りを行う、といった革新的な内容を提案した。後に、エリック・バーンが交流分析とゲームの理論を一般化させる。
※この「心理学者の道へ」の解説は、「ティモシー・リアリー」の解説の一部です。
「心理学者の道へ」を含む「ティモシー・リアリー」の記事については、「ティモシー・リアリー」の概要を参照ください。
- 心理学者の道へのページへのリンク