徳島大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:17 UTC 版)
大学進学にあたり中村は理論物理や数学を志していたが、教師から「食えんから」と言われて工学部に変更したという。徳島大学工学部に進学し、学科は物理学に近い電子工学科を選択する。下宿で専門書を読み耽るとともに、哲学の思索にも時間を割いたという。学部の同期には東原敏昭・日立製作所社長がいた(東原の学科は電気工学科)。また、3年生の時に後に妻となる教育学部の同級生の女性と出会い、交際を始めている。 3年生では当時助教授であった福井萬壽夫の固体物性の授業に面白さを感じ、中村は材料物性に興味を持つ。卒業研究では同分野の教授である多田修の研究室に所属。多田は実験装置の手作りを重視しており、中村は旋盤や溶接などものづくりの経験を積む。 中村はトップクラスの成績で学部を卒業後、同大学大学院工学研究科修士課程に進学。なお、大学院進学にあたっては大学院に博士課程のある京都大学も受験していたが、不合格になっている。また、大学院1年生の時に結婚し、修了時には子供もいた。 大学院修了を控えて松下電器産業の採用試験を受けるが、不採用となる。その後、中村は京セラを受験。この時の面接担当者は創業者の稲盛和夫で、中村は合格した。しかし、家族の養育の関係から、地元就職を希望。指導教授の多田の斡旋により日亜化学工業を受け、採択される。
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