御史大夫時代とは? わかりやすく解説

御史大夫時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 03:21 UTC 版)

センウ」の記事における「御史大夫時代」の解説

1277年(至元14年)に入ると、「シリギの乱」に派遣され南宋遠征軍の指揮官の中でセンウのみが江南呼び戻され新設され江南御史台(江南行台)の長官(御史大夫)に任じられた。この時、センウ御史大夫任じたクビライのジャルリク(聖旨)が『南台備要』に所収されており、そこには以下のように記されている。 至元十四年、つつしんで率じた聖旨にて、……まさに公務管轄すべき様々な種類人々諭し遍く諭した聖旨。天はかたじけなく南宋を得さしめたぞ。[任務を]任せて行かせた大小官吏は、仕事をするその時に、人民たちから決まりにない差発とりたて非道に騒ぎ乱し、およそ公務があれば情実うかがっている。今、大小公務任命した官人(ノヤン)たちに対して、誰であれ、いずれの場合であろうとも現地調査行えセンウを行御史台の頭として任命するぞ。これを欽め。 — 「行御史台設立してセンウ命じて御史大夫とする制」『南台備要』 御史台は本来官署監察機関に過ぎないが、この時の江南行台」は江南全体統括反乱の鎮圧といった軍事行動といった役目担っていた。 そのため、南宋遠征軍中で最も出自良く五投下という強力な軍団有するセンウのみが特に呼び戻され御史大夫任じられたのだと考えられている。 1279年(至元16年)に一時クビライの下を訪れた際には、弾劾受けていた尚書省アフマド審問命じられている。翌1280年(至元17年)には南宋遠征軍の最高指揮官一人エリク・カヤ南宋平定寺に得た投降民3名を不当に私奴隷としていた事実追求し、彼らを民にもどすよう命じたエリク・カヤが南末平定時に得た不正な財産追求1282年(至元19年)にも行われエリク・カヤ死後その息子世代にも続けられた。1281年(至元18年)には日本遠征失敗(弘安の役)の報告クビライの下にもたらされ激怒したクビライ再度日本遠征アタカイ命じた周囲の者はクビライ怒り恐れてこれに反対しなかったが、センウのみは「いずれ日本は伐たなければならないにしろ、今はそれを急ぐべきではありません。十分に準備整えた上、一挙に征伐を行うべきです」 とクビライ短慮諫め日本遠征延期させたという。 1283年(至元20年)には病のため中央戻り、そこでモンゴル語訳した資治通鑑』をクビライ進呈した。これを受けてクビライセンウ新たに江淮行省左丞相任じたが、翌年1284年(至元21年)4月44歳にして亡くなった。これを聞いたクビライセンウの死を深く惜しんだという。ジャライル部センウ家はウリヤンハンアジュとともに代々江南統治首脳輩出する家系として大元ウルス通じて繁栄した

※この「御史大夫時代」の解説は、「センウ」の解説の一部です。
「御史大夫時代」を含む「センウ」の記事については、「センウ」の概要を参照ください。

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