御史大夫時代
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1277年(至元14年)に入ると、「シリギの乱」に派遣された南宋遠征軍の指揮官の中でセンウのみが江南に呼び戻され、新設された江南行御史台(江南行台)の長官(御史大夫)に任じられた。この時、センウを御史大夫に任じたクビライのジャルリク(聖旨)が『南台備要』に所収されており、そこには以下のように記されている。 至元十四年、つつしんで率じた聖旨にて、……まさに公務を管轄すべき様々な種類の人々に諭し、遍く諭した聖旨。天はかたじけなくも南宋を得さしめたぞ。[任務を]任せて行かせた大小の官吏は、仕事をするその時に、人民たちから決まりにない差発をとりたて、非道に騒ぎ乱し、およそ公務があれば情実をうかがっている。今、大小の公務に任命した官人(ノヤン)たちに対して、誰であれ、いずれの場合であろうとも現地調査を行え。センウを行御史台の頭として任命するぞ。これを欽め。 — 「行御史台を設立して、センウに命じて御史大夫とする制」『南台備要』 御史台は本来官署の監察機関に過ぎないが、この時の「江南行台」は江南全体の統括や反乱の鎮圧といった軍事行動といった役目も担っていた。 そのため、南宋遠征軍中で最も出自が良く、五投下という強力な軍団を有するセンウのみが特に呼び戻され、御史大夫に任じられたのだと考えられている。 1279年(至元16年)に一時クビライの下を訪れた際には、弾劾を受けていた尚書省のアフマドの審問を命じられている。翌1280年(至元17年)には南宋遠征軍の最高指揮官の一人、エリク・カヤが南宋平定寺に得た投降民3万名を不当に私奴隷としていた事実を追求し、彼らを民にもどすよう命じた。エリク・カヤが南末平定時に得た不正な財産の追求は1282年(至元19年)にも行われ、エリク・カヤの死後その息子の世代にも続けられた。1281年(至元18年)には日本遠征失敗(弘安の役)の報告がクビライの下にもたらされ、激怒したクビライは再度の日本遠征をアタカイに命じた。 周囲の者はクビライの怒りを恐れてこれに反対しなかったが、センウのみは「いずれ日本は伐たなければならないにしろ、今はそれを急ぐべきではありません。十分に準備を整えた上、一挙に征伐を行うべきです」 とクビライの短慮を諫め、日本遠征を延期させたという。 1283年(至元20年)には病のため中央に戻り、そこでモンゴル語に訳した『資治通鑑』をクビライに進呈した。これを受けてクビライはセンウを新たに江淮行省左丞相に任じたが、翌年の1284年(至元21年)4月に44歳にして亡くなった。これを聞いたクビライはセンウの死を深く惜しんだという。ジャライル部センウ家はウリヤンハン部アジュ家とともに代々江南統治首脳を輩出する家系として大元ウルスを通じて繁栄した。
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