徐皇后
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徐皇后 | |
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明の皇后 | |
![]() 仁孝文皇后徐氏 | |
在位 |
建文4年10月12日 - 永楽5年7月4日 (1402年12月7日 - 1407年8月6日) |
別称 | 仁孝慈懿誠明荘献配天斉聖文皇后 |
出生 |
至正22年2月9日 (1362年3月5日) 元 応天府 |
死去 |
応天府 紫禁城 |
埋葬 | 長陵 |
配偶者 | 永楽帝 |
子女 |
朱玉英(永安公主) 洪熙帝 朱高煦 永平公主 朱高燧 安成公主 咸寧公主 |
父親 | 徐達 |
母親 | 中山武寧王夫人謝氏 |
弟 | 徐輝祖 |
徐皇后(じょこうごう)は、明の第3代皇帝である永楽帝(朱棣)の皇后である。
生涯
朱元璋(洪武帝)に仕え、明の建国に貢献した元勲で魏国公・中山王の位にあった徐達の長女。弟に靖難の変で建文帝側について最後まで戦った徐輝祖がいる。
幼い頃から読書を好んだ才女で、「学者」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は、四男で見込みのあった朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年(1376年)に結婚した。容姿は美しくないが機知に富み、夫婦仲は良く、7人の子供を産んだ。朱元璋の皇后である馬氏に特に寵愛されたという。
建文元年(1399年)に靖難の変が起こると、燕王朱棣の本拠である北平(北京)に建文帝軍の将である李景隆が攻めてくる。このとき北平を守っていたのは朱能とわずかな兵士だったが、徐氏も出征中の兵士の妻を集め、自らも鎧を着て奮戦したという。建文4年(1402年)に靖難の変が終結すると、弟である徐輝祖の助命を夫に嘆願して許され、夫が皇帝に即位すると皇后になった。
慎み深い性格で、皇后になっても驕ることはなく、自らの一族を重用することは決してなかった。文化事業に熱心で、古人の格言・善行を編纂した「内訓」や「高皇后聖訓」「勧善」などがある。
永楽5年(1407年)7月に死去した。享年46。仁孝慈懿誠明荘献配天斉聖文皇后と諡された。永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、チベットから僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。
子女
参考文献
徐皇后(徐王妃)(演:于小慧(中国語版))
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「鄭和下西洋」の記事における「徐皇后(徐王妃)(演:于小慧(中国語版))」の解説
永楽帝(朱棣)の燕王妃→明朝皇后。名将・徐達の娘。朱高熾・朱高煦の生母。徐妙錦の姉。鄭和の才覚を見出し、燕王府に仕えさせる。朱棣とは深い愛情で結ばれ、その愛は一途で決して揺るがない。靖難の役においては北平の留守を務め、自らも剣を振るって戦った。永楽帝の即位後は皇后に就任。実の息子の朱高熾・朱高煦の後継者争いに心を痛め、兄弟の和解を切望している。国母として民の安寧に関して気に掛けており、南京入城の際、路上に溢れかえる貧民や流民を見て、強く心を痛めた。鄭和の大航海には終始賛成の立場を取る。鄭和の大航海における輸出品・下賜品用の絹織物を賄うために、妃嬪・女官や宮女たちを率い、宮中で盛んに織紡を行った。やがて病に侵され、永楽帝に先立って世を去る。病床にあって、反対意見が相次ぐ大航海事業を継続するためのヒントを鄭和に与えた。
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