引退 - 闘病 - 死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:21 UTC 版)
「ジャンボ鶴田」の記事における「引退 - 闘病 - 死去」の解説
1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」とある。鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のわずか3名であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離が出来ており、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際に鶴田は「もしそっちに何かあったらすぐに言ってきて良いよ。俺はミチャワくんの味方なんだからさ。それだけは忘れないでくれよな」と告げたとされている。 この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去。奇しくもこの日は1984年にリック・マーテルに敗れてAWA世界ヘビー級王座から陥落した日でもあった。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。
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