引退、評論家への転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:11 UTC 版)
「渡辺正人 (競馬)」の記事における「引退、評論家への転身」の解説
40代となってからも皐月賞3連覇など輝かしい活躍を見せた一方で、騎乗数は大幅に減少。皐月賞3連覇を達成した1960年は、年間を通じての騎乗数がわずか47鞍のみであった(うち10勝)。 1961年にユキロウでスプリングステークスを制したのが最後の重賞勝利となり、47歳となった1963年6月限りで騎手を引退。日本中央競馬会では騎手としては初めての引退式を開催して、長年の労苦をねぎらった。 引退後は調教師への転身などといった中央競馬の内部に残る道を選ばず、日本初となる元騎手の競馬評論家・解説者へと転身。スポーツニッポン専属評論家となり、ホースニュース・馬、のちに報知新聞社に移り予想や戦評を数多く執筆。日本短波放送(現在のラジオNIKKEI)では、女優の加藤みどりと『勝馬大作戦』に出演し、加藤との丁々発止のやり取りが人気を博す。また、東京12チャンネル→テレビ東京『土曜競馬中継』にも解説者としてレギュラー出演。1973年、熱狂的なハイセイコーブームの真っ只中の日本ダービーでは、現役時代に多く騎乗した稲葉幸夫厩舎との縁で、戦前はそれほど注目される存在ではなかったタケホープに目を付けて取材。主戦騎手の嶋田功から「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」という競馬史に残る発言を引き出したことでも知られる。 1982年11月21日に急性心不全のため、東京都内の自宅で死去。66歳没。亡くなる数日前まで競馬中継にレギュラー出演するなど、最後まで現役であった。
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