常陸国の木村氏
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常陸国にも木村氏の家系が数流確認される。佐竹氏の家臣 木村氏は本姓を源氏とし、清和源氏の家系であるという(または、宇多源氏流近江源氏 佐々木氏の流れとも)。陸奥国菊田郡林下郷木村にあり、木村を名乗ったとされ、永正10年(1513年)、木村民部義久が佐竹氏より禄280石を給され、久慈東郡金砂郷村芦間へ移ったという。二郎大夫義昌は建武年間(1334年から1338年)、南北朝合戦に功をあげ、那珂通辰はじめ那珂氏、川野辺氏など南朝諸勢力を破ったとされる。 また、常陸国には宇多源氏の流れを汲む近江源氏の木村氏の家系があり、元は鎌倉幕府御家人 佐々木四郎高綱に属し、500貫を給されていたという。始祖木村陸奥守義胤は平治元年(1160年)、源義朝の討ち死ににより、諸国の源氏は影を潜めるさなか、義胤子孫三代のうちに常陸国の佐竹氏に随い、350貫を給され、木村義維は従五位下相模守に任官したとされる。別系 弥右衛門直通、佐竹義宣の秋田転封に際して足軽として平鹿郡横手に住まうという。 さらに、『山方町史』には同町に存する木村氏について載せ、木村綱宗は文治年間(1185年~1189年)佐々木定綱の臣として仕えた後、佐竹昌義に仕え、その子 綱俊は佐竹秀義に随い、西金砂合戦に功ありといい、250貫を賜るといい、太田郷佐都西に住むという。後に延徳3年(1491年)久慈東郡竹合村に移り、永禄5年(1562年)2月、小貫村大沢平に移住、佐竹氏の秋田転封後も常陸国内に定住、山方村舟尾、久慈郡盛金、長貫、田野にも分家があるという。 家紋は宇多源氏流が五つ瓜に四つ目、丸に片喰、丸に釘抜き、丸に立ち沢潟、丸に平四つ目、丸に四つ目を用いるとされ、清和源氏流が丸に花菱の家紋を用いるという。また藤原流木村氏は左三つ藤巴、左三つ巴、丸に下がり藤を用いるという。さらに、本姓不詳の木村氏が対い蝶を用いるとされている。
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