帝国陸軍時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 07:47 UTC 版)
日中戦争の拡大と対米関係緊迫などの事情から士官学校入学者が激増し、市ヶ谷のみでは対応しきれなくなった。1939年(昭和14年)4月12日に牟田口少将が陸軍予科士官学校長となり、当時の朝霞町への移転計画が立てられた。この計画は「ヨシ工事」と名付けられ、竹中工務店が施工、また700日で完成させなければならない突貫工事であった。 陸軍士官学校(旧本科)は神奈川県座間(相武台)に移転し、埼玉県豊岡(修武台、現:入間市 航空自衛隊入間基地)には陸軍航空士官学校が置かれている。 陸軍予科士官学校に在学していた生徒は、陸軍幼年学校の卒業生、16歳から19歳までの採用試験合格者や同じく試験に合格した下士官などで、1941年(昭和16年)から終戦時まで1万5,000名もの生徒が学んでいた。中国、タイ、モンゴル、フィリピン、インドなどの留学生なども入学している。 戦争末期には本土決戦を想定した「対戦車肉迫攻撃訓練」が開始される。終戦年の4月7日にはB29による1トン爆弾が学校に命中し、12名が死亡している。なお爆撃目標から外されていたが、南西方向に存在した中島飛行機武蔵野工場を狙ったものが誤爆したと考えられている。 終戦直後には「終戦業務処理委員会」が置かれ、被服廠の軍需物資処理を行なった。
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