工業立村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/16 04:09 UTC 版)
楠町の工業化の開始は、酒製造業と蚕を購入して生糸を製造する繊維産業である。しかし世界大恐慌で1930年(昭和5年)に糸の値段が急下落して、生糸を作る工場は、倒産と失業で仕事を失った。岡田武兵衛ら楠村の政治家と実業家は、楠村の工業化のために楠村民が豊かな生活と暮らしができるように、生糸と毛織物を製造する紡績工場を誘致しようとした。付近の四日市港の整備と拡大発展する四日市市に隣接する事と、豊富な工業用水と、当時の伊勢電気鉄道(現在の近畿日本鉄道)の楠駅と北楠駅が設置されているなどの交通の便利である事と、広い工業用地に恵まれているなどの地理的好条件であった楠村は岡田村長を中心に工場を誘致して豊かな楠村を作り活気ある近代化と工業化をする「工業立村」と「商工立村」が村是として主張された。 1932年(昭和7年)中央毛糸紡績株式会社(後の東亜紡織楠工場、現在のトーア紡コーポレーション四日市工場)が建設されて、1933年(昭和8年)に東洋毛織(現在の東洋紡株式会社の東洋紡績楠工場)の2大紡績会社と地場産業である中小企業の三重製網と東亜酒精(後の宝酒造)のを楠村に誘致と操業する事に成功した。近代工場以外に、楠町の町道など道路の整備事業。吉崎海水浴場の開設。保養旅館の開設。劇場の開設。楠主婦会の結成。楠電信局の開通工事。楠町立病院の隔離病練の新築事業。楠小学校講堂の落成。五味塚橋の施工など都市化政策が行われた。楠の工業化は大規模紡績工場の誘致と完成と共に、楠の人口が急増して大正時代の人口3000人台から昭和15年度には総人口が倍増して人口が6000人台に達した。1946年(昭和21年)の楠町長職の退任時には人口が三重県内の工業生産額が四日市市の次いで2位となった。紡績工場の労働者が増加して伊藤平治郎による三重郡富洲原町の東洋紡績富田工場と初代平田佐次郎が創業した平田紡績による富洲原の軽工業化をモデルにしていた。
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