工学技師の道へ
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「ヨーゼフ・シュトラウス」の記事における「工学技師の道へ」の解説
父ヨハン1世の影響を強く受けて音楽家となった兄ヨハン・シュトラウス2世とは違って、ヨーゼフには音楽家になろうという意志は全くなかった。名門高校ショッテン・ギムナジウム(ドイツ語版)を卒業した後、彼はウィーンの総合技術専門学校(現在のウィーン工科大学)の技術科で機械工学、製図、数学を学んだ。出席率は対して良くなかったが、最終試験では「一級」の評価を得た。 1848年革命が勃発すると、ヨーゼフは革命側に立って武器を手にして戦った。同年12月23日、父はヨーゼフに軍人になるよう命令したが、「私は人を殺すことを学びたくない。人間として人類に、市民として国家に役立ちたい」として拒絶した。父は翌年に死んだため、ヨーゼフは軍人になることを強制されずに済んだ。その後の数年間、技師としてのキャリアを順調に積んでいった。 1851年 - 現場監督としてドナウ川支流の石のダムと水門の建設を管理 1852年 - 『数学、工学、幾何学、物理学における実例、公式、表、テスト集』を出版 1853年 - 同僚とともに路面清掃車の計画書をウィーン市議会に提出 とりわけ自動車に回転するブラシをつけるという路面清掃車の計画は、当初は「実際的でない」として却下されたが、のちに採用され、今日のシステムの前身として評価されている。なお、実現はしなかったが、ヨーゼフはさらに雪かき機の設計も提出する意思を示していた。 この頃にもヨーゼフは趣味として歌曲やピアノ曲を作曲しており、そうした作品はもっぱら仲間内で演奏された。フランツ・マイラーによると、ヨーゼフは「素晴らしいピアニストならびに歌手として、仲間内でその種の作品をよく作曲していた」という。オットー・ブルサッティ(ドイツ語版)によれば、作曲年代が判明しているヨーゼフの最古の曲は、1849年に作曲された『演奏会大ギャロップ』である。ヨーゼフ自らテキストを書き、舞台装置を考え、登場人物や衣裳、背景のスケッチもいろいろ描いた『ローバー』という五幕の劇もある。
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