山笠の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:52 UTC 版)
博多祇園山笠の起源については諸説あるが、鎌倉時代の1241年(仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖であり当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷したことを発祥とするのが通説である。 安土桃山時代、島津氏と豊臣氏の戦いにより博多の街は焼け野原となったが、豊臣秀吉が帰国の際、博多の街をいくつかの区画毎に「流」(ながれ)としてグループ化し復興を行った(太閤町割)。この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥である。戦後の一時期、山笠を建てた流は13流に増えたこともあったが現在の「流」は恵比須流・大黒流・土居流・東流・西流・中洲流・千代流の7流である(福神流は山笠を建てない)。なお「流」は複数の「町(町内会)」で構成され、各町が1年交代で流の運営を担っており、これを「当番町」と呼ぶ(東流のみ、当番町を持たず流全体で運営を行っている)。 かつては京都の祇園祭のように町ごとに飾山笠の華美を競いながら練り歩いていたが江戸時代の1687年(貞享4年)に土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起こる。このとき2つの流が抜きつ抜かれつのマッチレースを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回るスピードを競い合う「追山」が始まった。以来戦後の一時期を除き祭のクライマックスとしてこの「追山」が執り行われ、福岡市内のみならず近隣各地から多くの観衆を集めている。 1945年(昭和20年)は福岡大空襲の影響で中止となった。 戦後に入り1955年(昭和30年)に「博多祇園山笠振興会」が発足、当時より「博多部外」の新天町等でも飾山笠行事が行われ1962年(昭和37年)より「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。1970年(昭和45年)から子供(小学生)が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まった。 2020年(令和2年)は、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、次年夏までの延期の形で戦後初の開催見送りとなった。翌2021年(令和3年)は、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、舁き山の行事(追い山など)は前年と同様、次年夏までの延期の形で開催を見送る一方、飾り山の展示は、中洲流・千代流を除き7月1日から14日まで実施された。 2022年(令和4年)に行われた博多祇園山笠振興会の総会で、3年ぶりとなる舁き山の開催を決定した。
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